第16章
その日は、ほとんど静かだった。
穏やかだったわけではない。黒の城塞に平穏など程遠い。そもそも権力は、沈黙することを知らないらしい。即断を迫らない時でさえ、書類の擦れる音、衛兵の足音、慎重な報告、保留された請願、角の向こうから向けられる他人の視線となって、絶えずざわめいている。
だが、ここ数日のあとでは小休止に思えた。
最も急を要することは済んでいる。
玉座に就いた。国庫は開かれ、病んでいると診断された。税についての結論も出した。軍は彼が存在すると知った。光の術師は口を開き、剣士は望んだ死を得た。
女祭司は生きている。
最後の一つが、ほかの何よりも心を離れなかった。
朝、彼は私的執務室の卓に長く座り、広げた報告書を見つめながら何も読んでいなかった。リラはもう定位置となった右側に立ち、急かさない。シアナからは昨日の負荷を受けた魔力回路の状態について短い報告が届き、なぜか「感情の急変は周囲における〈影〉の圧力へ影響を及ぼす可能性があります」と特に強調されていた。
拷問室で石が割れたことを、誰かが知らせたのだろう。
マルヴェインからも覚書が届いていた。
ひどく短い。
> 女祭司は生存。治療済み。沈黙を継続。
> 昨日より、命令の境界を理解しました。
最後の一行を二度読んだ。
それから記録板を脇へ置く。
「ご返答は?」
「要らない」
「何も?」
「今は、あいつも漬けておこう」
リラは、マルヴェインと女祭司のどちらを指したのか確かめなかった。
正しい判断だ。
午前中は大評議会も、諸家の謁見もなかった。儀式も、誓約も、税を巡る争いも、緊急の面会もない。マルヴェインは、噂が然るべき耳へ届き、互いに働き始めるまで一日置くよう進言していた。アズガルは兵舎と倉庫へ向かい、シアナは助手たちと財務翼棟へ籠もって決定の影響を再計算している。
何かに変わることを即座に求められない数時間が、初めてできた。
宮殿を歩くことにした。
リラもついてきた。
行き先は尋ねない。記録板を持ち、腰の細い短剣を直し、その隣に本人が出入り用だと言う小さな印章のようなものを掛け、右側の位置についた。
「ずっと一緒にいるつもりか?」
私的翼棟を出たところで尋ねた。
「別の随行規則をお定めになるまでは」
「ただ歩きたい時は?」
「ただ隣を歩きます」
「便利な言い方だな」
「実用的です」
フョードルは笑った。
昼の黒の城塞は、また違って見えた。黒い石はもう、それほど飢えているようには見えない。壁を走る赤い筋も、より安定して光っている。彼の姿を認めた使用人や書記は頭を下げ、その場で動きを止めた。急すぎる者もいれば、深すぎる者もいる。あからさまな恐怖、好奇心、計算が透けて見えるほど周到に組み立てられた敬意。
視界の端で、彼らの気配を捉えた。
今も邪魔だった。
真実が多すぎる。
文書庫への通路で深く頭を下げた書記は、外見だけなら忠誠の模範だった。だが周囲の気配には、何かを盗んだか隠した者の細かな不安が脈打っている。顔は覚えたが、何も言わなかった。小さな嘘の一つ一つを君主の最優先事項にしていたら、来年の冬までこの廊下を出られない。
かつての戦勝を飾る回廊を通った。壁には浮彫が並ぶ。黒い旗の下の魔族軍、焼け落ちた〈光〉の砦、〈森〉との条約、海辺の断崖での戦い。
全てが、美しく、同時に嘘だった。
勝利は多い。敗北はほとんどない。地図を十分に知った今なら分かる。こんな壁だけを見ていれば、自らの偉大さを信じ込み、国境が何年も後退している事実に気づかなくなる。
「敗北の間はどこだ?」
リラが顔を向けた。
「そのような部屋はありません」
「作るべきだな」
「敗北は文書庫に保存されています」
「なら、不愉快な文書を読む者にしか見えない。足りないな」
彼女は少し黙った。
「そのような部屋をお作りになるのですか?」
「考えてるところだ」
「強い反発を招きます」
「いいな」
リラがわずかに眉を上げた。
「大きな問題を『いい』と呼ぶことが増えましたね」
「悪い問題は自分で名乗るからな」
二人はさらに歩いた。
内庭の一つでは、若い魔族たちが訓練していた。軍人ではない。宮殿警護兵か、武門の徒弟だろう。彼を見つけた瞬間、全員が動きを止めた。教官が整列させようとしたが、フョードルは手を振った。
「続けろ」
君主の前で本当に続けてよいのか、すぐには理解できなかったらしい。やがて教官が号令を飛ばし、中庭が再び動き出した。木製武器が盾を打ち、爪が鎧を滑り、翼のある若者が回転に失敗して腿へ柄を食らう。
フョードルは足を止めた。
数分、見つめる。
ケイルの身体は動きについて多くを知っていた。思考の集まりではない。筋肉が、構えを直せ、肩をずらせ、歩幅を縮めろ、打撃の前に翼を晒すな、と苛立っているような知識だった。
「口を出したいのですか?」
リラが小声で尋ねた。
「出したい。だから出さない」
「なぜです?」
「どこまでが俺の知識で、どこからがケイルの残りなのか、まだ分からない。それに君主が訓練中の若造を一人直せば、明日には宮廷の半分が新しい戦闘基準だと思う。偉い奴への反応はどこでも同じだ」
「そのとおりです」
「俺が説明する前に言えただろう」
「ご自分で仰るか、確かめたかったので」
彼はリラを見た。
「危険な女だな、リラ」
「魔族の女です」
「何にでも使える言い訳みたいだな」
彼女の唇に、淡い笑みの影が一瞬だけ浮かんだ。
訓練場を出て、五影の間へ着いた。
入るつもりはなかった。だが入口で足を止め、なぜか中へ進んだ。
広間は空だった。
廷臣も、何百もの声もないと、かえって広く見える。中央の玉座は暗く動かず、歴代君主の像が上から見下ろしている。火鉢の炎は静かに、一定の強さで燃えていた。
フョードルは玉座へ近づいた。
リラは階段の下に残る。
「儀式なしで座ってもいいのか?」
「あなたの玉座です」
「まだ他人の言葉みたいに聞こえるな」
彼は腰を下ろした。
そして突然、玉座がただの椅子ではないと悟った。
昨日の戴冠式では、全てが過剰だった。承認、広間、視線、影、儀礼。だが今、この空虚の中では感覚がはっきりする。
玉座を通して宮殿を感じた。
初めは掌の下にある石の圧力として。その後、もっと深く。廊下、広間、階段、渡り廊下、閉ざされた扉、内庭、地下牢、文書庫、兵舎、厨房、防護膜の下で何かが微かに火花を散らすシアナの研究室。
目で全てを見たわけではない。見なくても指の位置が分かるように、構造を自分の身体として感じていた。
下層では衛兵が動く。
西翼では誰かが口論し、その声が壁に吸われている。
財務の間ではシアナが苛立たしげに記録板を指で叩き、三人の助手に同じ列を再計算させていた。
兵舎ではアズガルが武器の列の間を歩き、その周囲の空間は密度を増している。
マルヴェインは三人の相手と部屋にいた。三人の気配は嘘で張り詰め、彼だけが愉快そうに穏やかだった。
そして下層の牢では――。
フョードルは止まった。
玉座が素直に注意をそちらへ引く。
光の術師は寝台の上で身を丸め、何かを呟いていた。
女祭司は独房の中で、横向きに寝ていた。
生きている。
静かすぎる。
フョードルは肘掛けから勢いよく手を離した。
つながりが切れる。
広間は、ただの広間に戻った。
リラが近づく。
「何が起きました?」
彼はすぐに答えなかった。
「玉座を通して、宮殿を感じる」
彼女は頷いた。
「はい」
「知ってたのか?」
「そうではないかと。完全に扱えるのは、承認を受けた真の君主だけです」
「なぜ教えなかった?」
「言葉では説明しにくいからです。それに、君主ご自身で見つけるほうがよいものです」
彼は考えてから言った。
「もう一つ扉が増えたみたいだ」
「はい」
「この城の扉は、静かな場所には滅多につながらないな」
リラは否定しなかった。
彼はもう一度、今度は慎重に肘掛けへ手を置いた。
宮殿が応える。だが弱い。今度は中へ落ちず、表面に触れたまま保っている。
学べる。
学ばなければならない。
玉座、石、影を通じた権力。自分も他人も簡単に押し潰せる、新たな道具だった。
「あとで調べよう」
「シアナが喜びます」
「警告の山を出すだろうな」
「おそらく」
彼は立ち上がった。
「先へ行こう。東塔が見たい」
リラが顔を上げる。
「ようやくですね」
「ようやく、とは?」
「本物の空はどこで見られるか、お尋ねになりました」
「全部覚えてるのか?」
「仕事ですから」
「自分より俺の人生を覚えてる奴が隣にいると便利だな」
「まだ二日ほどです」
「何年かより長い二日だ」
彼女は答えなかった。
東塔への道は予想より長かった。内側の深い裂け目を渡る高い橋を通り、狭間窓の並ぶ細い回廊を抜け、翼のある者を想定しているはずなのに、なぜか階段のある塔を上る。
「翼があるのに、なぜ階段が?」
「全員に翼があるわけではありません」
「なるほど」
「それに、翼があっても使えるとは限りません」
フョードルは横目で彼女を見た。
「今のは当てつけか?」
「観察です」
「シアナの悪影響だな」
「むしろ逆です」
頂上には重い扉があった。
リラが印章へ触れる。扉が開き、転移して以来初めて、彼は空を見た。
本物の空を。
穹窿の下の影ではない。
空。
広く、冷たく、高い。
光は奇妙だった。地球のものではない。わずかに銀を帯び、地平線には深い青、雲には濃紫の筋が走っている。太陽は低いが眩しくない。馴染みの太陽より白く、誰かが黄色を洗い落としたようだった。
遥か下に〈影〉の領地が広がる。尖った岩山、暗い森、城壁、灰色の平原、溶けた錫の帯のような川。地平線の向こうには山々が霞み、城塞の麓には都市が見えた。
風が顔を打った。
翼が勝手に開く。
彼は身を震わせたが、畳もうとはしなかった。
風が翼膜を、新しい神経を、背中全体を渡っていく。身体は即座に応えた。
縁まで進み、そのまま飛び降りたい。
フョードルは一歩下がった。
リラは見逃さなかった。
「今は駄目です」
「自分でも分かった」
「なら、結構です」
「身体は、どうしても試したいらしい」
「身体は飛べるつもりです。あなたはまだ飛べません」
「信頼をありがとう」
彼は声を上げて笑った。
風がその音をさらう。
しばらく、ただ眺めていた。
これが異世界だった。
広く、見知らぬ、本物の世界。道があり、都市があり、国境があり、空がある。人間、魔族、森、そして遠くには海もある。すでに彼を殺そうとし、すでに君主と呼んだ世界。
「綺麗だ」
「はい」
「暗い」
「それも、はい」
「実にお前たちらしい」
「この世界には、ほかの土地もあります」
「見ることになる」
「はい」
彼は彼女へ振り返った。
「確信してるのか?」
リラは視線を受け止めた。
「あなたが死なず、国庫を爆発させず、早すぎる戦争を始めず、諸家に玉座を引き裂かせず、最初の飛行で墜落しなければ」
「それだけか」
「短くしました」
彼はもう一度、空を見た。
「ありがとう」
「何に対してです?」
「綺麗な嘘をつかないことに」
リラはすぐには答えなかった。
「綺麗に嘘をつくのはマルヴェインです」
「知ってる」
「必要なら、私にもできます」
「必要ない。マルヴェインは一人で十分だ。二人いたら宮殿が耐えられない」
彼女は、ほとんど笑った。
二人は長く塔に立っていた。
やがて、フョードルは空腹になった。
身体は突然、大きな声で、外交的配慮なく要求してきた。
「食事にしますか?」
「食事だ」
「シアナが喜びます」
「国益に従って栄養を摂取していると伝えろ」
「勅令で献立を組んでよい、という意味に取るかもしれません」
彼は考えた。
「伝えるな」




