第4話「優しい狼の怒り方」
月守町の夕方は、ゆっくりと明かりを変えていく。
商店街の店先には橙色の光が灯り、学校帰りの子どもたちの声が通りを抜けていく。
八百屋の店主は店じまいの準備をし、パン屋の奥さんは売れ残ったパンを袋に詰め、花屋の前では水をもらった花たちが夜を待っていた。
いつもと同じ、穏やかな夕方だった。
月守町交番の前では、狼崎凛が掲示板の張り紙を整えていた。
その隣には、白、灰、黒の毛並みをした大きな犬、朔が静かに座っている。
張り紙には、最近町で起きている小さな注意喚起が書かれていた。
『不審な声かけに注意』
『高齢者への金銭要求に注意』
『子どもだけで知らない人についていかないこと』
凛は画びょうを押し込みながら、少しだけ目を細めた。
「……嫌な紙ですね」
朔が耳を動かす。
「町に貼りたい言葉ではありません」
凛の声はいつも通り丁寧だった。
けれど、その奥にほんの少しだけ、冷たいものが混じっていた。
数日前から、月守町で妙な話が出ていた。
商店街の裏道で、高齢者に声をかけてお金を出させようとする男がいる。
子どもに「お母さんに頼まれた」と声をかけ、家の場所を聞き出そうとする人がいる。
どれも大きな被害にはなっていない。けれど、凛はそういうものを「小さいこと」とは思わなかった。
弱い人を選んで近づく。
その時点で、十分に悪質だった。
「朔。今日は商店街の裏通りも回ります」
朔は静かに立ち上がった。
凛は帽子をかぶり、交番の扉を閉める。
一人と一匹は、夕方の月守町へ歩き出した。
商店街の表通りは、いつも通り明るかった。
「凛ちゃん、見回り?」
八百屋の店主が声をかけてくる。
「はい。少し気になる相談が続いていますので」
「例の、声かけのやつかい?」
「念のためです。何かありましたら、すぐ交番へ」
「わかった。さく君も頼んだよ」
朔は店主を見上げ、尻尾を一度だけ揺らした。
凛はその様子を見て、少しだけ表情をやわらげた。
「朔ばかり頼られますね」
朔は何も言わない。
「否定しないんですね」
凛がそう言うと、朔は前を向いたまま歩き出した。
表通りを抜け、商店街の裏道へ入ると、空気が少し変わった。
店の明かりは届いているが、人通りは少ない。
自転車置き場、古い倉庫、裏口。
昼間なら何でもない場所も、夕方になると影が濃くなる。
凛はゆっくり歩きながら、周囲を見ていた。
古い掲示板の前。
自動販売機の横。
細い路地の奥。
そこに、一人の高齢の女性がいた。
手押し車をそばに置き、困ったように財布を開いている。
その前に、見慣れない男が立っていた。
三十代くらいだろうか。
灰色の上着を着て、軽い笑顔を浮かべている。
男は女性に顔を近づけ、何かを早口で話していた。
「だからね、おばあちゃん。町内の安全協力費ってやつ。今だけ集めてるんですよ」
「でも、そんな話、聞いてなくて……」
「回覧板、見てない? 困るなあ。みんな払ってるんですよ。払ってないの、おばあちゃんだけになるよ?」
女性の手が、不安そうに震えていた。
凛の足が止まる。
朔も同時に止まった。
凛は表情を変えずに、二人の方へ歩いた。
「こんばんは」
男が振り返る。
凛はいつもと同じ、丁寧な声だった。
「月守町交番の狼崎です。何かお困りですか」
女性は凛を見て、ほっとしたように顔を上げた。
「あ、凛ちゃん……」
男の笑顔が、一瞬だけ固まる。
だがすぐに、軽い調子で手を振った。
「ああ、おまわりさん。いやいや、ただの町内の集金ですよ」
「町内の集金ですか」
「そうそう。安全協力費ってやつで。最近物騒でしょ? 俺、頼まれて回ってるんです」
「どちらの町内会から頼まれましたか」
凛の声は穏やかだった。
男は少しだけ目を泳がせた。
「えーと、まあ、商店街の方から」
「商店街のどなたですか」
「いや、細かいことまでは」
「集金の許可証か、書類はありますか」
「今は持ってないけど」
「領収書は」
「あとで渡す予定で」
凛は男をまっすぐ見た。
「では、今この場でお金を受け取る理由はありませんね」
男の口元が少し引きつる。
「いや、そういう堅い話じゃなくてさ。町のためなんですよ」
「町のためなら、町の人を不安にさせる方法は選びません」
凛の声はまだ丁寧だった。
だが、空気だけが少しずつ冷えていく。
女性は財布を握ったまま、凛の後ろに少し下がった。
朔が静かに女性の横へ移動する。
大きな体で、女性と男の間に自然な壁を作った。
男は朔を見て、舌打ちしかけた。
けれど凛の前だからか、すぐに笑顔を作った。
「怖いなあ、その犬。交番でそんなの飼ってていいんですか?」
「この子は人を選びます」
凛は静かに言った。
「怖がらせる人間と、守るべき人間を」
男の目が細くなる。
「感じ悪いね、おまわりさん」
「よく言われます」
凛は淡々と返した。
その時だった。
路地の奥から、小さな足音が聞こえた。
ランドセルを背負った女の子が、走ってこちらへ向かってくる。
顔が青ざめていた。
目には涙が浮かんでいる。
「凛さん……!」
それは、以前交番に迷子で来た女の子、みおだった。
凛の視線が、一瞬だけみおに向く。
「みおさん。どうしましたか」
みおは凛のそばまで来ると、震える手で男を指さした。
「その人……さっき、ママが呼んでるからって……一緒に来てって言って……」
男の顔から笑みが消えた。
凛はゆっくりと男へ視線を戻す。
「そうですか」
声は静かだった。
「詳しく、お話を聞かせていただけますか」
「知らねえよ。子どもの勘違いだろ」
男は吐き捨てるように言った。
凛の目が少しだけ細くなる。
「子どもが怯えています。まずはその言い方を改めてください」
「あ? なんだよ、疑ってんの?」
「疑っています」
凛は即答した。
男の肩がぴくりと動く。
凛は一歩前へ出た。
「高齢者に不明な名目で金銭を要求し、子どもに保護者を装って声をかけた。偶然にしては、ずいぶん都合が悪いですね」
「だから、知らねえって言ってんだろ」
男は後ろへ下がる。
その視線が、逃げ道を探すように左右へ動いた。
凛はそれを見逃さなかった。
「逃げないでください」
その声に混じる温度は、さっきより明らかに低い。
「お話を聞くだけです。あなたにやましいことがないのなら」
「うるせえな!」
男が突然、身をひるがえした。
裏道の奥へ走り出す。
「朔!」
凛が短く呼ぶ。
朔はすでに動いていた。
だが、男を追いかけるのではなく、まずみおと高齢の女性の前に立った。
大きな体で二人を守るように、低く構える。
凛は一瞬だけそれを見て、うなずいた。
「お願いします」
その言葉を残し、凛は走った。
夕方の裏道を、凛の足音が鋭く響く。
普段の静かな歩き方とはまるで違った。
高身長の体が、風を切るように路地を抜けていく。
白、灰、黒のウルフヘアが揺れ、制服の裾が後ろへ流れる。
男は必死に逃げていた。
「止まってください」
凛の声が飛ぶ。
「これ以上逃げるなら、状況は悪くなります」
「来んな!」
男は振り返りざま、路地脇に積まれていた空き缶の入った袋を蹴り飛ばした。
袋が破れ、缶が一斉に路地へ散らばる。
金属音が耳障りに響いた。
凛は足を止めなかった。
転がる缶を踏む直前、軽く地面を蹴る。
細い路地の壁に片足をかけるようにして体を浮かせ、散らばった缶を飛び越えた。
着地と同時に、また走る。
男が振り返り、目を見開いた。
「なんなんだよ、お前……!」
「月守町交番の警察官です」
凛は息を乱さず答えた。
男はさらに焦ったように、今度は店の裏に置かれていたプラスチックケースを倒した。
中に入っていた古新聞と段ボールが、路地に広がる。
凛は一瞬だけ目を細めた。
「店の備品を壊さないでください」
「うるせぇ!」
男はなおも走る。
凛は広がった段ボールを避けるように一歩横へ跳び、壁際に置かれていた低い木箱に足をかけた。
そのまま軽く体をひねり、倒れたケースを飛び越える。
靴音が、濡れたアスファルトを叩いた。
普段の凛からは想像できないほど、動きに迷いがなかった。
静かで、速くて、獲物を追い詰める狼のようだった。
男は路地の角を曲がる。
その先は、商店街の表通りにつながる細い道だった。
人通りがある。
ここへ出られると、誰かを巻き込むかもしれない。
凛の目つきが変わった。
「そこで止まりなさい」
その声は、先ほどよりも強かった。
男は止まらない。
むしろ、近くに置かれていた掃除用のバケツを蹴った。
水が跳ね、路地に広がる。
凛は濡れた地面を見た。
そのまま踏み込めば滑る。
だが、凛は速度を落とさなかった。
壁際の細い棒に足を乗せ、高く飛び上がり、水たまりを避ける。
次の瞬間には、男のすぐ後ろまで迫っていた。
「止まれって、言ってるでしょう」
丁寧な言葉の端が、わずかに崩れた。
男が振り返る。
焦りと怒りで顔が歪んでいた。
「しつこいんだよ!」
男は凛に向かって腕を振った。
凛はそれを横へ流す。
男の腕をつかみ、逃げる方向とは逆へ引く。
だが男も必死だった。
暴れるように体をひねり、凛の手を振りほどこうとする。
「離せ! 女のくせに調子乗んな!」
その言葉を聞いた瞬間、凛の表情から温度が消えた。
いつもの冷静さでもない。
優しさの滲む丁寧な顔でもない。
そこにいたのは、月守町の人を傷つける者を逃がさない、狼だった。
「……抵抗しないでください」
まだ言葉は丁寧だった。
けれど声の低さが、さっきまでと違っていた。
「うるせぇって言ってんだろ!」
男がさらに暴れる。
凛の腕を振りほどき、掴みかかろうとした。
次の瞬間、凛は一歩踏み込んだ。
男の腕を取り、体を沈める。
流れるような動きで男の体を自分の背中に乗せ、そのまま地面へ投げた。
背負い投げだった。
男の体が宙を浮き、鈍い音を立てて路地に倒れる。
「ぐっ……!」
男が呻く。
凛はすぐに体勢を整え、男の腕を押さえた。
無駄のない動きだった。
怒りに任せた乱暴さではない。
訓練された、冷静な制圧。
男はなおも暴れようとした。
「てめぇ、ふざけんな……!」
凛は男の腕を押さえたまま、手錠を取り出す。
「暴れないでください」
「離せ!」
「できません」
男は地面に押さえつけられたまま、まだ何か言おうとした。
凛はその顔を見下ろす。
その目は、朔と同じ黄色を帯びた狼の目のように、冷たく鋭かった。
「子どもを怯えさせて、高齢者を騙して」
凛の声が低くなる。
「逃げて、物を壊して、それでもまだ偉そうに吠えるんですね」
男の動きが止まる。
手錠の金属音が、路地に小さく響いた。そして、男に一言だけ吐き捨てた。
「弱い相手選んで偉そうにしてんじゃねぇよ、クソ野郎」
空気が凍った。
男は何も言えなかった。
凛はゆっくり立ち上がる。
乱れた制服の袖を直し、呼吸を整えた。
そして次の瞬間には、いつもの冷静な声に戻っていた。
「詳しいお話は、署で伺います」
通報を受けて応援に来た警察官に男を引き渡した頃には、商店街の人たちも少しずつ集まっていた。
凛は必要な説明を終えると、すぐに裏道へ戻った。
そこには、朔がいた。
みおと高齢の女性のそばで、ずっと座っていた。
みおは朔の毛を握りしめている。
高齢の女性も、朔の隣で少し震えながら腰を下ろしていた。
「お待たせしました」
凛は二人の前に膝をついた。
さっきまでの鋭さは、もうそこにはなかった。
声も、いつもの丁寧な凛に戻っている。
「もう大丈夫です。怖い思いをさせましたね」
みおの目から、涙がこぼれた。
「凛さん……怖かった……」
「はい」
凛は静かにうなずく。
「怖い時は、怖いと言っていいんです。あなたが悪いことは、何もありません」
みおは朔に顔をうずめて泣いた。
朔は動かず、ただ静かにその体を受け止めている。
高齢の女性も、震える手で凛の袖をつかんだ。
「私、払っちゃうところだったよ……」
「払わなくてよかったです」
「でも、みんな払ってるって言われて……私だけ迷惑かけるのかと思って……」
凛は女性の手に、そっと自分の手を重ねた。
「迷惑ではありません。困った時に立ち止まることは、町を守ることと同じです」
女性は何度もうなずいた。
「凛ちゃんが来てくれてよかった」
「朔が先に気づきました」
凛がそう言うと、朔は耳を少し動かした。
「さく君も、ありがとうねえ」
女性が朔の頭を撫でる。
みおも涙をぬぐいながら言った。
「さく君、守ってくれてありがとう」
朔の尻尾が、ゆっくり一度だけ揺れた。
その後、みおの母親が迎えに来た。
事情を聞いて、母親は青ざめた顔で何度も凛に頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
「みおさんが自分で逃げて、助けを求めてくれました。よく頑張りました」
凛はみおに視線を向ける。
みおは泣き疲れた顔で、小さくうなずいた。
「凛さん、怒ってた?」
その問いに、凛は少しだけ黙った。
商店街の人たちも、なんとなく息をひそめる。
先ほどの凛の姿を、遠目に見ていた人もいたのだろう。
凛はみおの前にしゃがむと、静かに言った。
「怒っていました」
「こわかった?」
「少し、怖かったかもしれません」
凛は目を伏せる。
「でも、人を傷つける人にだけです」
みおは凛を見つめた。
凛の声は、いつものように綺麗だった。
けれど、その奥にはまだ消えきらない怒りの熱があった。
「優しい人を騙そうとする人。小さな子を怖がらせる人。そういう人には、きちんと怒らなければいけません」
「怒るの、悪いことじゃない?」
「悪くありません」
凛ははっきりと言った。
「誰かを守るための怒りなら、それは必要なものです」
みおは少し考えてから、朔を見た。
「じゃあ、凛さんは優しい狼さんだから怒ったの?」
凛は返事に困ったように、わずかに視線をそらした。
「……その表現は、少し照れます」
商店街の誰かが小さく笑った。
張り詰めていた空気が、少しだけほどける。
朔が凛の手に鼻先を寄せた。
凛はその頭を撫でる。
「あなたも、よく守ってくれました」
朔は静かに目を細めた。
その日の夜、月守町交番にはいつもより多くの差し入れが届いた。
八百屋からはみかん。
パン屋からは小さなパン。
花屋からは白い花。
高齢の女性からは、手紙が一枚。
『助けてくれてありがとう。優しい狼さんへ』
凛はその手紙を、しばらく黙って見つめていた。
「……優しい狼、ですか」
交番の入口で伏せていた朔が、凛を見上げる。
「怒っている時の私は、あまり優しくありませんでした」
朔は何も言わない。
「言葉も、少し乱れました」
朔はじっと見ている。
「……少しではありませんね」
凛は小さく息を吐いた。
そして、手紙を丁寧に机の引き出しへしまった。
「でも」
凛は窓の外の月守町を見る。
夜の商店街には、ぽつぽつと明かりが灯っている。
その明かりの一つひとつに、誰かの生活がある。
守りたいと思う理由がある。
「必要なら、また怒ります」
凛の声は静かだった。
「この町の人を傷つけるなら、何度でも」
朔がゆっくり立ち上がり、凛の隣に並んだ。
凛は朔の頭を撫でる。
その手つきは、いつも通り優しかった。
「ただし、次はもう少し言葉を選びます」
朔が小さく鼻を鳴らした。
「信用していませんね」
凛は少しだけ笑った。
月守町交番には、狼がいる。
普段は静かで、丁寧で、少し不器用に優しい狼。
けれど、弱い人を傷つける者の前では、その優しさは牙になる。
この町の人たちは知っている。
狼崎凛は、怖い。
本気で怒ると、息が止まるほど怖い。
けれどその怒りは、誰かを傷つけるためではない。
誰かを守るためにだけ向けられる、優しい狼の怒りだった。




