第5話「朔が帰らない日」
月守町の空は、朝から薄い灰色をしていた。
雲は低く垂れ込め、今にも雨が降り出しそうだった。
商店街を歩く人たちも、空を見上げては足を少しだけ速めている。
月守町交番の入口では、朔が静かに町を眺めていた。
白、灰、黒の毛並みが、曇り空の色によく馴染んでいる。
その隣で、狼崎凛は掲示板に貼られた紙の端を押さえていた。
「風が強くなってきましたね」
凛が言うと、朔の耳が風の音を拾うように動いた。
「雨になる前に、一度見回りへ行きましょうか」
朔はゆっくりと立ち上がった。
一人と一匹が商店街へ向かうと、いつものように店の人たちから声がかかった。
「凛ちゃん、さく君。今日は早めに帰った方がいいよ」
八百屋の店主が、空を指さす。
「夕方から強く降るってさ」
「承知しています。雨が降る前に、危険な場所がないか確認しておきます」
「本当に真面目だねえ」
「仕事ですので」
凛が淡々と答えると、店主は笑った。
「さく君、凛ちゃんを濡らさないように頼んだよ」
朔は店主を見上げたあと、凛の方を見る。
「なぜ私が、朔に守られる前提なのでしょう」
朔は何も答えず、前を向いて歩き出した。
「……否定もしないんですね」
いつものことだ。
凛は小さく息を吐き、その後を追った。
見回りはいつも通りだった。
曲がった道路標識を確認し、道に飛び出していた植木鉢を店の人と一緒に移動させる。
公園の水道が出しっぱなしになっていないか確かめ、帰宅途中の子どもたちに声をかけた。
「雨が降る前に帰ってくださいね」
「はーい!」
子どもたちは元気よく返事をすると、朔に手を振って走っていった。
「走ると転びますよ」
凛の忠告は、もう届いていなかった。
その時、朔が足を止めた。
商店街から住宅街へ続く細い道の途中だった。
「朔?」
朔は凛を見ず、道の向こうへ鼻先を向けている。
風に混じって、何かの匂いを感じ取っているようだった。
凛も周囲に目を向ける。
道には誰もいない。
ただ、電柱の根元に小さな黄色い帽子が落ちていた。
凛はそれを拾い上げた。
「子どもの帽子ですね」
近くの小学校で使われているものだった。
内側には、小さな文字で名前が書かれている。
「結城、奏太……」
凛が名前を読み上げると、朔が低く鼻を鳴らした。
次の瞬間、朔は道の奥へ走り出した。
「朔!」
凛が呼び止める。
しかし、朔は振り返らなかった。
白、灰、黒の大きな背中は細い道を抜け、そのまま住宅街の角へ消えていった。
凛は一瞬、その場に立ち尽くした。
朔が凛の呼びかけを無視することは、ほとんどない。
何かを見つけた。
そう考えるべきだった。
凛はすぐに走り出した。
角を曲がる。
けれど、そこに朔の姿はなかった。
「朔!」
声を張る。
返事はない。
住宅街には、洗濯物を取り込む人の姿があるだけだった。
凛は近くにいた女性へ声をかけた。
「すみません。大きな犬が、こちらを通りませんでしたか」
「さく君? さっき走っていったよ。あっちの坂の方へ」
「ありがとうございます」
凛はすぐに坂道へ向かった。
朔がいなくなった。
その事実を、凛は頭の中で何度も打ち消した。
いなくなったわけではない。
何かを追っているだけだ。
朔は賢い。
町の道も理解している。
危険なことはしない。
そう分かっている。
それでも、胸の奥が嫌な音を立てていた。
坂の上から住宅街を見下ろしても、朔の姿はない。
ぽつり、と雨粒が凛の頬に落ちた。
「……もう降り始めましたか」
凛は空を見上げる。
朔は雨が苦手ではない。
けれど、道は滑りやすくなる。
車からも見えにくくなる。
考えたくないことばかりが、勝手に頭へ浮かんでくる。
凛は小さく息を吐いた。
「落ち着いてください」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
「朔は、理由なく消えるような子ではありません」
凛は交番へ連絡を入れ、帽子の名前をもとに子どもの情報を確認した。
結城奏太。七歳。
学校はすでに下校しているが、まだ自宅には戻っていない。
母親とも連絡が取れていないらしい。
朔はこの子を追った。
凛は黄色い帽子を強く握りしめた。
「……見つけたんですね」
不安は消えない。
だが、探すべきものが見えた。
凛は商店街へ戻りながら、周囲の人たちに聞き込みを始めた。
「黄色い帽子をかぶった男の子を見ませんでしたか」
パン屋の奥さんが店から飛び出してくる。
「男の子? さっき、一人で川の方へ歩いていく子がいたよ」
「川の方ですか」
「うん。でも、いつも見る子じゃなかったから気になってて」
凛の顔がわずかに強張った。
月守町の外れには、小さな川が流れている。
普段は穏やかだが、雨が強くなると水かさが増す。
「凛ちゃん、さく君は?」
奥さんが尋ねる。
「……男の子を追っていると思います」
凛の返事はいつも通り丁寧だった。
けれど、声がほんの少しだけ硬い。
八百屋の店主も店から顔を出した。
「さく君、戻ってないのかい?」
「はい」
「じゃあ、俺たちも探すよ」
「お気持ちはありがたいですが、雨が強くなります。店に戻っていてください」
「そういうわけにいくか。さく君だって、商店街の仲間だろ」
その言葉に、凛は一瞬だけ黙った。
花屋の女性も傘を持って出てくる。
「私は公園の方を見てくる」
「俺は裏通りを回るよ」
「みなさん」
凛は止めようとした。
けれど、店の人たちはすでに動き出していた。
「凛ちゃんは川へ行って」
パン屋の奥さんが言う。
「さく君なら、きっとその子を守ってるよ」
凛は唇を少しだけ結んだ。
「……ありがとうございます」
そして、深く頭を下げる。
「ただし、危険な場所には入らないでください。何か見つけたら、すぐ連絡を」
凛は川へ向かって走り出した。
雨は少しずつ強くなっていた。
舗道を打つ雨音が、足音を消していく。
凛の髪は濡れ、白と灰と黒の色が暗く沈んでいた。
「朔!」
何度呼んでも、声は雨の中へ吸い込まれていく。
川沿いの遊歩道に出た。
水面は雨粒に打たれ、細かく揺れている。
普段より流れが速くなっていた。
凛は足元を確認しながら進んだ。
泥の上に、大きな足跡が残っている。
朔のものだった。
「……こちらですか」
足跡は遊歩道を外れ、川沿いの古い倉庫の裏へ続いている。
凛はさらに速度を上げた。
倉庫の裏には、小さな斜面がある。
その下には、雨を避けられるようなコンクリートのくぼみがあった。
凛が斜面の上から見下ろす。
そこに、白、灰、黒の毛並みが見えた。
「朔!」
朔はコンクリートのくぼみの中で伏せていた。
その腹元には、小さな男の子がうずくまっている。
男の子は濡れた服のまま、朔の体にしがみついていた。
朔は自分の大きな体で男の子を包むようにして、雨風から守っている。
凛の胸の奥で、固まっていたものが一気にほどけた。
斜面を下り、二人のそばへ向かう。
「大丈夫ですか」
男の子が顔を上げた。
目は赤く、頬には涙と雨が混じっている。
「お、おまわりさん……」
「結城奏太さんですね」
男の子は小さくうなずいた。
「足を怪我していますか」
「転んで……痛くて、歩けなくなって……」
凛は男の子の足を確認する。
大きな怪我ではなさそうだが、足首をひねっている。
「大丈夫です。すぐに戻りましょう」
凛は上着を脱ぎ、男の子の肩へかけた。
「さく君が来てくれたの」
奏太が朔の毛を握りしめる。
「ぼく、怖くて……でも、さく君がずっとそばにいてくれた」
「そうですか」
凛は朔を見る。
朔の毛は雨と泥で濡れていた。
前足にも、小さな擦り傷ができている。
凛の目がわずかに揺れた。
「あなたは……」
言葉が続かない。
朔はいつもと同じように、静かに凛を見上げていた。
奏太を安全な場所まで連れていくことが先だった。
凛は気持ちを押し込み、奏太を背負った。
朔は凛の横を歩く。
雨の中、三人は川沿いの道を戻った。
途中で応援の警察官と合流し、奏太は病院へ運ばれることになった。
駆けつけた母親は、奏太を抱きしめながら何度も泣いた。
「本当にありがとうございます……!」
「奏太さんが、雨を避けられる場所を見つけてくれました。朔もそばにいましたので、大きな怪我にはなりませんでした」
凛はいつものように説明する。
冷静で、丁寧な声だった。
奏太は車に乗る前に、朔へ手を伸ばした。
「さく君、ありがとう」
朔は奏太の手に鼻先を寄せる。
「また会える?」
「会えますよ」
凛が答えた。
「朔は、月守町交番にいます」
奏太は少しだけ笑い、母親と共に病院へ向かった。
人がいなくなると、川沿いには雨の音だけが残った。
朔が凛を見上げる。
凛はその場に立ったまま、しばらく何も言わなかった。
いつもなら、まず怪我を確認する。
濡れた毛を拭き、勝手に走っていったことを注意する。
けれど今は、言葉が出てこなかった。
凛はゆっくり朔の前にしゃがんだ。
「……なぜ、呼んでも戻らなかったのですか」
声は静かだった。
朔は少しだけ耳を伏せる。
「あなたが、あの子を守らなければならなかったことは分かっています」
凛の指が、朔の濡れた毛に触れる。
「分かっていますが……」
その手が、わずかに震えた。
「せめて、一度くらい振り返ってください」
朔は動かない。
凛は朔の前足の擦り傷を見る。
「あなたまで怪我をして」
声が少しだけ掠れた。
「どこにもいなくて、呼んでも返事がなくて」
いつもの凛なら、人前でこんな声を出すことはなかった。
冷静で、丁寧で、誰かを安心させる側でいようとする。
けれど今は、凛と朔しかいない。
「私は……」
凛は言葉を止めた。
それから、朔の大きな体を強く抱きしめた。
濡れた毛が制服に触れる。
泥も雨水も気にならなかった。
「あなたまで、いなくなったら」
その先を、凛は言えなかった。
朔は少し驚いたように動きを止めたあと、静かに凛へ体を寄せた。
凛は朔の首元に顔を埋める。
「昔から、勝手なところがありますね」
声が震えていた。
「私が止めても、誰かが困っていれば、すぐに行ってしまう」
朔の尻尾が、ゆっくり地面を叩いた。
「あなたは、優しすぎます」
凛は朔を抱く腕に、さらに力を込めた。
「それで、いつも私を心配させる」
しばらく、雨の音だけが続いた。
やがて凛は顔を上げる。
目元が少し赤くなっていた。
「……帰りましょう」
朔が凛の頬へ鼻先を近づける。
「帰ったら、まず傷の手当てです。その後、お風呂に入ります」
朔は少しだけ顔をそらした。
「嫌そうな顔をしないでください」
凛の声に、少しだけいつもの調子が戻る。
「それから、勝手にいなくなったことについて、長い話があります」
朔は静かに前を向いた。
「聞こえないふりをしても駄目です」
凛は立ち上がり、朔の頭を撫でた。
その手は、まだ少し震えていた。
交番へ戻ると、商店街の人たちが入口の前で待っていた。
「さく君!」
パン屋の奥さんが駆け寄ってくる。
「見つかったんだね!」
「はい。迷子の子どもと一緒にいました」
「怪我は?」
「軽い擦り傷です。大丈夫です」
八百屋の店主が、ほっとしたように息を吐く。
「よかった。本当によかったよ」
花屋の女性は、濡れた朔へタオルをかけた。
「さく君、また人を助けたんだね」
朔は少しだけ尻尾を揺らした。
凛はその様子を見ながら、何も言わなかった。
けれど、交番の中へ入る時、朔の背中にそっと手を添えた。
その日の夜。
朔は交番の奥で、毛布の上に横になっていた。
前足には、凛が巻いた白い包帯がある。
凛はその隣に座り、濡れた髪を拭きながら朔を見ていた。
「今日のことは、褒めるべきなのでしょうね」
朔が目を開ける。
「迷子の子どもを見つけ、雨から守った。とても立派です」
凛は少し間を置く。
「ですが、私の呼びかけを無視したことは褒められません」
朔は目を閉じた。
「寝たふりをしないでください」
朔は動かない。
凛は小さく息を吐いた。
それから、朔の隣へ腰を下ろし、大きな体にもたれた。
「……本当に、怖かったんですよ」
朔の耳が動く。
「街の人の前では、言えませんでしたが」
凛は朔の毛をゆっくり撫でる。
「あなたがいないと、交番がひどく広く感じます」
朔の尻尾が、毛布の上で一度だけ動いた。
凛は小さく笑う。
「ですから、もう勝手にいなくならないでください」
少し間を置いてから、凛は続ける。
「誰かを助けに行く時も、私を連れていきなさい」
朔が顔を上げ、凛を見る。
凛も朔を見返した。
「私たちは、家族であり、相棒でしょう」
朔はゆっくりと凛の肩へ頭を寄せた。
凛はその頭を抱き寄せる。
「……おかえりなさい、朔」
その言葉は、誰かを安心させるための綺麗な言葉ではなかった。
ただ、大切な家族が帰ってきたことを確かめるための、凛の素直な言葉だった。
月守町交番には、狼がいる。
町の人を守る、大きくて優しい狼が。
そして、その狼の帰りを、誰よりも強く願うおまわりさんがいる。
一人と一匹は、その夜も寄り添うように眠った。
まるで、もう二度と離れないことを確かめるように。




