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狼のおまわりさん  作者: のあ


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3/5

第3話「狼崎凛は眠い」


 月守町交番の朝は、いつもより少しだけ静かだった。


 窓の外では、商店街がゆっくりと目を覚ましている。

 シャッターの上がる音、パン屋から流れてくる焼きたての匂い、通学中の子どもたちの声。


 けれど交番の中だけは、まだ夜の空気を引きずっていた。


 机に突っ伏した狼崎凛が、小さく息を吐く。


「……朔」


 入口の近くに座っていた朔が、耳だけを動かした。


「人間は、なぜ朝になると活動を始めるのでしょうか」


 朔は答えない。


「夜は静かです。月は綺麗です。書類は減りません。つまり、朝は来なくてもいい」


 凛は顔を机につけたまま、淡々とした声でそう言った。

 白、灰、黒の混ざったウルフヘアが、机の上で少し乱れている。


 昨夜、凛は夜勤だった。

 迷惑駐輪の対応、酔った男性の保護、落とし物の受付、夜道を不安がる女性の見送り。

 大きな事件はなかったが、小さな対応が途切れなかった。


 そして朝になった今、狼崎巡査はとても眠かった。


 朔が立ち上がり、凛のそばまで来る。

 前足で、凛の膝を軽く押した。


「……起きています」


 凛は目を閉じたまま言う。


 朔はもう一度、前足で押す。


「起きています。これは休憩です。職務上必要な、精神の再起動です」


 その時、交番の入口から声がした。


「あのう、すみません」


 凛の体がぴくりと動いた。

 次の瞬間には、何事もなかったように背筋を伸ばして座っている。


「はい。どうされましたか」


 声は丁寧。

 表情は冷静。

 ただし、目元だけが少し眠そうだった。


 入口に立っていたのは、近所に住む年配の女性だった。

 手には小さな鍵を持っている。


「これ、うちの前に落ちていたんだけどね。誰か困ってるんじゃないかと思って」


「ありがとうございます。お預かりします」


 凛はメモを取ろうとして、ペンではなく消しゴムを手に取った。


 朔が机の上をじっと見る。


 凛も自分の手元を見る。


「……これでは、書けませんね」


 何事もなかったようにペンに持ち替えた。


 年配の女性はくすくす笑う。


「凛ちゃん、夜勤明け?」


「はい。ですが問題ありません」


「問題ありそうな顔してるけどねえ」


「顔は生まれつきです」


 凛が真顔で答えると、女性はさらに笑った。


 鍵を受け取った凛は、落ちていた場所を聞きながら、きちんと記録していく。

 眠そうではある。

 けれど、女性が言った細かな道順や時間は、すべて正確に聞き取っていた。


「この鍵、昨日の夕方に相談に来た山田さんのものかもしれません」


「え、わかるの?」


「はい。茶色の革のキーホルダーがついた家の鍵をなくしたと話していました。確認して連絡します」


 女性は感心したように目を丸くした。


「眠そうなのに、ちゃんと覚えてるんだねえ」


「眠いことと、忘れることは別です」


 凛は静かに言った。


 その足元で、朔が少しだけ尻尾を揺らした。


 女性が帰ると、凛はすぐに電話で確認を取った。

 やはり鍵は、昨日相談に来た男性のものだった。


 無事に持ち主が見つかり、凛は受話器を置く。


「一件、解決です」


 そう言った直後、また机に額を落とした。


 朔が前足で凛の袖を引く。


「……五秒だけです」


 朔はじっと見る。


「三秒」


 朔はまだ見る。


「では、まばたき一回分」


 その時、また入口が開いた。


「すみません!」


 凛は再びすっと背筋を伸ばした。


「はい。どうされましたか」


 入ってきたのは、商店街のパン屋の奥さんだった。

 見回りの時、凛と朔にパンをくれた人だ。

 今日は少し慌てた顔をしている。


「お店の前に、知らない自転車がずっと置いてあって。お客さんが入りにくいの」


「場所はお店の入口の右側ですね」


「え、まだ言ってないのに」


「昨日の帰り、見回りの時にありました。前輪に青い傘がかかっていた自転車ですか」


「そう、それ!」


 凛は立ち上がり、帽子を手に取った。


「確認に行きます」


 そのまま出ようとして、なぜか机の上の湯呑みを持っていた。


 朔が低く鼻を鳴らす。


 凛は手元を見る。


「……これは、持っていきません」


 パン屋の奥さんは口元を押さえて笑った。


「凛ちゃん、今日かわいいね」


「かわいくありません。夜勤明けです」


「それをかわいいって言うんだよ」


 凛は少しだけ眉を寄せた。


「判断基準が独特ですね」


 朔は凛の横に並び、交番を出た。


 パン屋の前には、確かに青い傘のかかった自転車が置かれていた。

 凛は防犯登録を確認し、周辺に聞き込みをする。

 眠そうな顔をしているのに、質問は的確だった。


「昨日の午後四時頃からありました」

「前輪の泥は川沿いの道のものに近いですね」

「カゴの中に体操着袋があります。名前が見えます」


 凛が体操着袋を見ようとした時、朔が軽く袖をくわえた。


「……そうでした。勝手に開けません」


 凛は一度手を止め、必要な手順を踏んで確認した。

 持ち主は、近くの中学生だった。

 昨日、雨が降りそうで慌てて帰り、自転車を置いたまま忘れていたらしい。


 連絡を受けて走ってきた少年は、顔を真っ赤にして頭を下げた。


「すみません! 完全に忘れてました!」


「忘れ物は誰にでもあります。ただし、入口を塞ぐ場所に置いたことは反省してください」


「はい……」


 少年が小さくなると、凛は少しだけ声をやわらげた。


「次からは、急いでいる時ほど一度振り返りましょう。忘れ物は、走っている背中によくついてきます」


 少年はきょとんとしたあと、少し笑った。


「はい。気をつけます」


 パン屋の奥さんもほっとした顔になる。


「助かったよ、凛ちゃん。さく君もありがとね」


 朔は静かに座った。


「朔は、私が手順を飛ばしそうになったのを止めただけです」


「そこが偉いんじゃない」


 凛は少しだけ目をそらした。


「……否定はしません」


 交番へ戻る途中、今度は小学生の男の子が走ってきた。

 この間、重い荷物を持っていた、あの男の子だった。


「凛さん! さく君!」


「走ると転びます」


 凛が言った瞬間、男の子は本当に少しつまずいた。

 朔がすっと前に出て、男の子の進路をふさぐように立つ。

 男の子は朔の体に軽く手をついて、転ばずに済んだ。


「……ほら」


「さく君すごい!」


「まず、転びかけたことを反省してください」


 男の子は笑いながらうなずいた。


「おばあちゃんが、これ渡してって」


 差し出されたのは、小さな紙袋だった。

 中にはおにぎりが二つ入っている。


「夜勤明けだろうからって」


 凛は一瞬、言葉を失った。


「……お気遣いなくと、お伝えください」


「でも、食べてって言ってた」


「勤務中ですので」


「休憩の時!」


 男の子はにっと笑う。


「あと、ちゃんと寝てねって」


 凛は困ったように眉を下げた。

 朔が横から凛を見上げる。


「……わかりました。ありがたくいただきます」


 男の子は満足そうに笑うと、朔の頭を軽く撫でた。


「さく君、凛さんのことよろしくね」


 朔はまっすぐ男の子を見た。

 まるで「任せておけ」と言っているようだった。


 交番に戻った頃には、凛の眠気はさらに濃くなっていた。

 机に向かって書類を整理しようとして、なぜかおにぎりの包みを開けかける。


 朔が前足で机を軽く叩いた。


「……これは休憩で食べるものです」


 凛は包みを戻す。


 次に書類へ日付を書こうとして、昨日の日付を書きかける。


 朔がまた前足で机を叩く。


「……今日でしたね」


 凛は書き直す。


 さらに、落とし物の棚にみかんを置こうとする。


 朔が低く「ふす」と息を吐いた。


「……違います。これは食べ物です」


 凛はみかんを机の端に戻した。


 自分でもさすがにおかしくなったのか、凛は椅子にもたれて目を閉じた。


「朔」


 朔がそばに来る。


「今日の私は、少しだけ役に立ちませんね」


 朔は凛の膝に鼻先を乗せた。


「少しだけです」


 凛はそう付け加える。

 そして、ゆっくりと朔の頭を撫でた。


「でも、あなたがいるので、どうにかなっています」


 朔の耳が少し動く。


 その日の午後、交番にはもう大きな相談は来なかった。

 凛は鍵の持ち主への返却、自転車の記録、午前中の報告をすべて終わらせた。

 眠そうにしていたわりに、書類は一枚も抜けていない。


 やがて勤務時間が終わり、月守町交番には静かな夕方の空気が流れ込んできた。


 窓の外では、商店街の明かりがぽつぽつと灯り始めている。

 人の声は遠くなり、机の上に置かれたおにぎりの包みと、まだ片づけきれていない湯呑みだけが、今日の慌ただしさを少しだけ残していた。


 凛は帰る準備をしようとして、椅子に腰を下ろしたまま動きを止めた。


「……少しだけ、座ります」


 朔が隣に座る。


「帰る前に、精神の再起動を」


 そう言いながら、凛はゆっくりと朔の方へ体を預けた。

 朔は逃げずに、その大きな体で凛を受け止める。


 白、灰、黒の毛並みに、凛の指が沈む。

 凛は眠たげに目を細め、朔の首元をゆっくり撫でた。


「今日は、よく働きましたね」


 朔の耳が少しだけ動く。


「私より、ずっと」


 いつもの冷静な声ではなかった。

 眠気で力が抜けた、少しだけ幼い声だった。


 凛は朔にもたれたまま、ふにゃりと笑った。


「朔……大好きですよ」


 朔の尻尾が、ゆっくり一度だけ揺れた。


 凛はそのまま目を閉じる。

 数秒後には、静かな寝息が交番の中に落ちていた。


 朔は動かなかった。

 まるで、その眠りを守るように、凛のそばでじっと座っていた。


 月守町交番には、狼がいる。


 怖そうで、冷静で、誰よりも頼りになる、おまわりさん。

 そして、その狼崎巡査を誰よりも近くで支える、大きくて優しい狼みたいな犬。


 今日も月守町の一日は、二人に見守られて終わっていく。


 夜勤明けの狼崎凛が、少しだけ可愛い顔で眠っていることを知っているのは、今夜も朔だけだった。


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