第3話「狼崎凛は眠い」
月守町交番の朝は、いつもより少しだけ静かだった。
窓の外では、商店街がゆっくりと目を覚ましている。
シャッターの上がる音、パン屋から流れてくる焼きたての匂い、通学中の子どもたちの声。
けれど交番の中だけは、まだ夜の空気を引きずっていた。
机に突っ伏した狼崎凛が、小さく息を吐く。
「……朔」
入口の近くに座っていた朔が、耳だけを動かした。
「人間は、なぜ朝になると活動を始めるのでしょうか」
朔は答えない。
「夜は静かです。月は綺麗です。書類は減りません。つまり、朝は来なくてもいい」
凛は顔を机につけたまま、淡々とした声でそう言った。
白、灰、黒の混ざったウルフヘアが、机の上で少し乱れている。
昨夜、凛は夜勤だった。
迷惑駐輪の対応、酔った男性の保護、落とし物の受付、夜道を不安がる女性の見送り。
大きな事件はなかったが、小さな対応が途切れなかった。
そして朝になった今、狼崎巡査はとても眠かった。
朔が立ち上がり、凛のそばまで来る。
前足で、凛の膝を軽く押した。
「……起きています」
凛は目を閉じたまま言う。
朔はもう一度、前足で押す。
「起きています。これは休憩です。職務上必要な、精神の再起動です」
その時、交番の入口から声がした。
「あのう、すみません」
凛の体がぴくりと動いた。
次の瞬間には、何事もなかったように背筋を伸ばして座っている。
「はい。どうされましたか」
声は丁寧。
表情は冷静。
ただし、目元だけが少し眠そうだった。
入口に立っていたのは、近所に住む年配の女性だった。
手には小さな鍵を持っている。
「これ、うちの前に落ちていたんだけどね。誰か困ってるんじゃないかと思って」
「ありがとうございます。お預かりします」
凛はメモを取ろうとして、ペンではなく消しゴムを手に取った。
朔が机の上をじっと見る。
凛も自分の手元を見る。
「……これでは、書けませんね」
何事もなかったようにペンに持ち替えた。
年配の女性はくすくす笑う。
「凛ちゃん、夜勤明け?」
「はい。ですが問題ありません」
「問題ありそうな顔してるけどねえ」
「顔は生まれつきです」
凛が真顔で答えると、女性はさらに笑った。
鍵を受け取った凛は、落ちていた場所を聞きながら、きちんと記録していく。
眠そうではある。
けれど、女性が言った細かな道順や時間は、すべて正確に聞き取っていた。
「この鍵、昨日の夕方に相談に来た山田さんのものかもしれません」
「え、わかるの?」
「はい。茶色の革のキーホルダーがついた家の鍵をなくしたと話していました。確認して連絡します」
女性は感心したように目を丸くした。
「眠そうなのに、ちゃんと覚えてるんだねえ」
「眠いことと、忘れることは別です」
凛は静かに言った。
その足元で、朔が少しだけ尻尾を揺らした。
女性が帰ると、凛はすぐに電話で確認を取った。
やはり鍵は、昨日相談に来た男性のものだった。
無事に持ち主が見つかり、凛は受話器を置く。
「一件、解決です」
そう言った直後、また机に額を落とした。
朔が前足で凛の袖を引く。
「……五秒だけです」
朔はじっと見る。
「三秒」
朔はまだ見る。
「では、まばたき一回分」
その時、また入口が開いた。
「すみません!」
凛は再びすっと背筋を伸ばした。
「はい。どうされましたか」
入ってきたのは、商店街のパン屋の奥さんだった。
見回りの時、凛と朔にパンをくれた人だ。
今日は少し慌てた顔をしている。
「お店の前に、知らない自転車がずっと置いてあって。お客さんが入りにくいの」
「場所はお店の入口の右側ですね」
「え、まだ言ってないのに」
「昨日の帰り、見回りの時にありました。前輪に青い傘がかかっていた自転車ですか」
「そう、それ!」
凛は立ち上がり、帽子を手に取った。
「確認に行きます」
そのまま出ようとして、なぜか机の上の湯呑みを持っていた。
朔が低く鼻を鳴らす。
凛は手元を見る。
「……これは、持っていきません」
パン屋の奥さんは口元を押さえて笑った。
「凛ちゃん、今日かわいいね」
「かわいくありません。夜勤明けです」
「それをかわいいって言うんだよ」
凛は少しだけ眉を寄せた。
「判断基準が独特ですね」
朔は凛の横に並び、交番を出た。
パン屋の前には、確かに青い傘のかかった自転車が置かれていた。
凛は防犯登録を確認し、周辺に聞き込みをする。
眠そうな顔をしているのに、質問は的確だった。
「昨日の午後四時頃からありました」
「前輪の泥は川沿いの道のものに近いですね」
「カゴの中に体操着袋があります。名前が見えます」
凛が体操着袋を見ようとした時、朔が軽く袖をくわえた。
「……そうでした。勝手に開けません」
凛は一度手を止め、必要な手順を踏んで確認した。
持ち主は、近くの中学生だった。
昨日、雨が降りそうで慌てて帰り、自転車を置いたまま忘れていたらしい。
連絡を受けて走ってきた少年は、顔を真っ赤にして頭を下げた。
「すみません! 完全に忘れてました!」
「忘れ物は誰にでもあります。ただし、入口を塞ぐ場所に置いたことは反省してください」
「はい……」
少年が小さくなると、凛は少しだけ声をやわらげた。
「次からは、急いでいる時ほど一度振り返りましょう。忘れ物は、走っている背中によくついてきます」
少年はきょとんとしたあと、少し笑った。
「はい。気をつけます」
パン屋の奥さんもほっとした顔になる。
「助かったよ、凛ちゃん。さく君もありがとね」
朔は静かに座った。
「朔は、私が手順を飛ばしそうになったのを止めただけです」
「そこが偉いんじゃない」
凛は少しだけ目をそらした。
「……否定はしません」
交番へ戻る途中、今度は小学生の男の子が走ってきた。
この間、重い荷物を持っていた、あの男の子だった。
「凛さん! さく君!」
「走ると転びます」
凛が言った瞬間、男の子は本当に少しつまずいた。
朔がすっと前に出て、男の子の進路をふさぐように立つ。
男の子は朔の体に軽く手をついて、転ばずに済んだ。
「……ほら」
「さく君すごい!」
「まず、転びかけたことを反省してください」
男の子は笑いながらうなずいた。
「おばあちゃんが、これ渡してって」
差し出されたのは、小さな紙袋だった。
中にはおにぎりが二つ入っている。
「夜勤明けだろうからって」
凛は一瞬、言葉を失った。
「……お気遣いなくと、お伝えください」
「でも、食べてって言ってた」
「勤務中ですので」
「休憩の時!」
男の子はにっと笑う。
「あと、ちゃんと寝てねって」
凛は困ったように眉を下げた。
朔が横から凛を見上げる。
「……わかりました。ありがたくいただきます」
男の子は満足そうに笑うと、朔の頭を軽く撫でた。
「さく君、凛さんのことよろしくね」
朔はまっすぐ男の子を見た。
まるで「任せておけ」と言っているようだった。
交番に戻った頃には、凛の眠気はさらに濃くなっていた。
机に向かって書類を整理しようとして、なぜかおにぎりの包みを開けかける。
朔が前足で机を軽く叩いた。
「……これは休憩で食べるものです」
凛は包みを戻す。
次に書類へ日付を書こうとして、昨日の日付を書きかける。
朔がまた前足で机を叩く。
「……今日でしたね」
凛は書き直す。
さらに、落とし物の棚にみかんを置こうとする。
朔が低く「ふす」と息を吐いた。
「……違います。これは食べ物です」
凛はみかんを机の端に戻した。
自分でもさすがにおかしくなったのか、凛は椅子にもたれて目を閉じた。
「朔」
朔がそばに来る。
「今日の私は、少しだけ役に立ちませんね」
朔は凛の膝に鼻先を乗せた。
「少しだけです」
凛はそう付け加える。
そして、ゆっくりと朔の頭を撫でた。
「でも、あなたがいるので、どうにかなっています」
朔の耳が少し動く。
その日の午後、交番にはもう大きな相談は来なかった。
凛は鍵の持ち主への返却、自転車の記録、午前中の報告をすべて終わらせた。
眠そうにしていたわりに、書類は一枚も抜けていない。
やがて勤務時間が終わり、月守町交番には静かな夕方の空気が流れ込んできた。
窓の外では、商店街の明かりがぽつぽつと灯り始めている。
人の声は遠くなり、机の上に置かれたおにぎりの包みと、まだ片づけきれていない湯呑みだけが、今日の慌ただしさを少しだけ残していた。
凛は帰る準備をしようとして、椅子に腰を下ろしたまま動きを止めた。
「……少しだけ、座ります」
朔が隣に座る。
「帰る前に、精神の再起動を」
そう言いながら、凛はゆっくりと朔の方へ体を預けた。
朔は逃げずに、その大きな体で凛を受け止める。
白、灰、黒の毛並みに、凛の指が沈む。
凛は眠たげに目を細め、朔の首元をゆっくり撫でた。
「今日は、よく働きましたね」
朔の耳が少しだけ動く。
「私より、ずっと」
いつもの冷静な声ではなかった。
眠気で力が抜けた、少しだけ幼い声だった。
凛は朔にもたれたまま、ふにゃりと笑った。
「朔……大好きですよ」
朔の尻尾が、ゆっくり一度だけ揺れた。
凛はそのまま目を閉じる。
数秒後には、静かな寝息が交番の中に落ちていた。
朔は動かなかった。
まるで、その眠りを守るように、凛のそばでじっと座っていた。
月守町交番には、狼がいる。
怖そうで、冷静で、誰よりも頼りになる、おまわりさん。
そして、その狼崎巡査を誰よりも近くで支える、大きくて優しい狼みたいな犬。
今日も月守町の一日は、二人に見守られて終わっていく。
夜勤明けの狼崎凛が、少しだけ可愛い顔で眠っていることを知っているのは、今夜も朔だけだった。




