第2話「狼さん、商店街を歩く」
月守町の朝は、商店街のシャッターが上がる音から始まる。
ガラガラ、と金属の音が響くたびに、眠っていた町が少しずつ目を覚ます。
パン屋からは焼きたての匂いが流れ、八百屋の前には色の濃い野菜が並び、花屋の店先では水をもらった花たちが光を受けていた。
月守町交番の窓にも、朝の光が差し込んでいる。
机に向かっていた狼崎凛は、書類に目を通しながら小さく息を吐いた。
「……今日は、商店街の見回りですね」
その声に反応して、入口の横に座っていた朔が顔を上げた。
白、灰、黒の毛並みを持つ大きな犬。
狼のように見えるその姿は、朝の光の中でも十分に迫力がある。
凛は椅子から立ち上がると、制服の袖を整えた。
白と灰と黒が混ざったウルフヘアが、肩のあたりで静かに揺れる。
「朔。行きますよ」
朔はゆっくり立ち上がり、凛の隣に並んだ。
交番を出ると、商店街の方から人の声が聞こえてくる。
月守町は大きな町ではない。けれど、そのぶん人と人の距離が近い。
誰がどこの店の人で、どこの家の子で、どの道をよく通るのか。凛はだいたい覚えていた。
覚えようとしたわけではない。
気づけば、覚えていた。
「お、凛ちゃん! さく君!」
最初に声をかけてきたのは、八百屋の店主だった。
日に焼けた顔で、いつも声が大きい。
「おはようございます」
凛が丁寧に頭を下げると、朔も隣で静かに座った。
「今日も見回りかい。ご苦労さんだねえ」
「仕事ですので」
「そう言うと思ったよ。ほら、これ持ってきな」
店主は袋に入ったみかんを凛に差し出した。
「勤務中ですので、お気持ちだけで」
「いいからいいから。休憩の時に食べな。さく君にはこっち」
そう言って、店主は犬用のおやつの袋を別に取り出した。
凛は少しだけ目を細めた。
「……準備が良すぎませんか」
「さく君が通る日だからな」
店主が笑うと、朔の尻尾がほんの少しだけ揺れた。
凛はそれを横目で見る。
「朔。あなた、顔に出ています」
朔は何も聞いていないような顔で、前を向いた。
店主はそんな二人を見て、声を上げて笑った。
「本当に仲がいいねえ。いつもありがとよ、凛ちゃん。こないだの荷物運びも助かった」
「あれは通りかかっただけです」
「通りかかっただけで、あの量の段ボールを全部運んでくれる人はそういないよ」
「……腰を痛めていたでしょう。無理をすれば、明日の店に響きます」
凛は淡々と言った。
言葉はそっけない。
けれど、ちゃんと見ている人の言葉だった。
店主は一瞬きょとんとして、それから少し照れたように笑った。
「そういうところだよ、凛ちゃん」
「どういうところですか」
「優しいってこと」
凛は何も言わなかった。
ただ、わずかに視線を横へ逃がした。
その足元で、朔が凛を見上げている。
「……行きますよ、朔」
凛は少し早足で歩き出した。
商店街の道は、少しずつにぎやかになっていく。
通学中の子どもたちが「さく君だ!」と手を振り、犬の散歩をしている老人が「今日も立派だねえ」と目を細める。
凛と朔が歩くと、あちこちから声がかかる。
「凛ちゃん、おはよう」
「さく君、今日もかっこいいね」
「見回りお疲れ様」
「昨日の夜も交番の明かりついてたねえ。無理しないでよ」
凛は一つひとつに丁寧に返事をする。
「おはようございます」
「ありがとうございます」
「お気遣いなく」
「異常があれば、すぐ交番まで」
言葉はいつも通り落ち着いている。
けれど、朔は知っている。
凛の歩く速度が、いつもより少しだけゆっくりになっていることを。
パン屋の前を通ると、店の扉が勢いよく開いた。
「凛ちゃん! さく君!」
出てきたのは、パン屋の奥さんだった。
白いエプロンをつけ、手には紙袋を持っている。
「ちょうどよかった。これ、焼きすぎちゃったから持ってって」
「焼きすぎた量ではありませんね」
凛が袋を見て言う。
中には、丸いパンがいくつも入っていた。
「気のせい気のせい。いつも商店街見てくれてるお礼」
「ありがとうございます。ですが、あまりいただくわけには」
「じゃあ、これはさく君へのお礼ってことで」
奥さんはしゃがみ、朔の前に犬用の小さなパンを見せた。
「ほら、さく君用。玉ねぎもチョコも入ってない、安全なやつ」
朔は凛を見た。
凛は少し考え、ため息をつく。
「……一つだけです」
奥さんが笑顔で朔に渡すと、朔は上品に受け取った。
「ほんと、お行儀いいねえ。うちの子よりちゃんとしてる」
「犬と子どもを比べないでください」
「だって、さく君賢いんだもん」
朔は褒められていることが分かったのか、少しだけ胸を張った。
凛はその様子を見て、ほんのわずかに口元を緩めた。
その時、商店街の向こうから声がした。
「あっ、凛さん!」
小さな男の子が、両手に荷物を抱えて歩いていた。
見るからに重そうな買い物袋を、必死に持っている。
凛はすぐに近づいた。
「無理をしていますね」
「してない!」
男の子は強がって言ったが、袋の中の大根が今にも落ちそうだった。
凛はしゃがんで、袋を一つ持ち上げる。
「これは、家まで運びます」
「え、でも、見回り中じゃ」
「見回りです。荷物に潰されそうな小学生を発見しました」
男の子は少しだけ口を尖らせた。
「潰されないし」
「では、潰される前に運びます」
朔が男の子の隣を歩く。
男の子は朔を見て、少し照れながら言った。
「さく君も来る?」
朔は静かに尻尾を揺らした。
男の子の家は、商店街から少し入ったところにあった。
玄関先に着くと、男の子の祖母が驚いた顔で出てきた。
「あらまあ、凛ちゃん。すみませんねえ」
「いえ。重いものは無理をさせないでください」
「この子がどうしても自分で持つって言うから」
男の子は気まずそうに下を向いた。
凛は荷物を置くと、男の子に視線を合わせた。
「手伝いたい気持ちは、立派です。ただ、自分が倒れてしまっては、手伝いになりません」
「……うん」
「次は、半分だけ持ちましょう。残り半分は、誰かに頼ってください」
男の子は少し考えてから、うなずいた。
「じゃあ、次はさく君に頼む」
「朔は荷物運び係ではありません」
凛が即座に言うと、祖母が笑った。
男の子もつられて笑う。
帰り際、祖母は小さな包みを凛に差し出した。
「これ、お漬物。よかったら」
「お気持ちだけで」
「そう言わずに。凛ちゃん、ちゃんと食べてる?」
「食べています」
「本当かねえ」
祖母の視線が、朔に向く。
「さく君、凛ちゃんちゃんと食べてる?」
朔は凛を見上げた。
凛も朔を見る。
「……余計なことは言わないでください」
朔は何も言っていない。
けれど、祖母はなぜか納得したようにうなずいた。
「あら、やっぱりね」
「何がですか」
「ちゃんと食べなさいね、凛ちゃん」
凛は少しだけ肩を落とした。
「……善処します」
商店街に戻る頃には、凛の手にはみかん、パン、漬物の包みがあった。
見回りというより、差し入れを受け取りに来たようになっている。
凛はそれを見下ろし、小さく息を吐いた。
「……職務中に荷物が増えるのは、想定外です」
朔が横で鼻を鳴らす。
「あなたはいいですね。おやつをもらって、褒められて、歩いているだけで人気者です」
朔は前を向いたまま、尻尾だけを少し揺らした。
「否定しないんですね」
凛はそう言って、少しだけ笑った。
商店街の中央に差しかかった時、花屋の前で一人の女性が困った顔をしていた。
倒れた鉢植えから土がこぼれ、花がいくつか床に散っている。
「大丈夫ですか」
凛が声をかけると、花屋の女性は顔を上げた。
「あ、凛ちゃん。ごめんね、ちょっと手を滑らせちゃって」
「怪我は?」
「私は大丈夫。でも、お店の前が散らかっちゃって」
凛はすぐにしゃがみ、土を集め始めた。
朔もそばに座り、通行人が踏まないように自然と道の端に立った。
「凛ちゃん、制服汚れちゃうよ」
「洗えば落ちます」
「でも」
「花が踏まれる方が、かわいそうです」
花屋の女性は一瞬黙って、それから優しく笑った。
「そういうところ、本当に凛ちゃんらしいね」
凛は答えなかった。
その代わり、こぼれた花をそっと拾い上げた。
小さな白い花だった。
土が少しついているが、まだ綺麗に咲いている。
「この花は、まだ立てます」
凛が言うと、花屋の女性はうなずいた。
「うん。もう一回、植えてあげる」
片づけが終わると、女性は店の中から小さな花を一輪持ってきた。
淡い黄色の花だった。
「これ、お礼」
「勤務中ですので」
「じゃあ、交番に飾って。あそこ、ちょっと地味だから」
凛は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……地味ですか」
「うん。凛ちゃんとさく君がいるから十分目立つけど、花もあった方がいいよ」
確かに外の入り口の横には季節の花を飾ってあるが内装は少し寂しい気がする。
朔が凛を見る。
凛は花を受け取り、静かに言った。
「ありがとうございます。交番に飾ります」
花屋の女性は嬉しそうに笑った。
見回りを終える頃には、空が少しずつ夕方の色に変わり始めていた。
商店街の人たちは店先で片づけを始めている。
凛と朔が歩くと、またあちこちから声がかかった。
「凛ちゃん、今日もありがとね」
「さく君、また来てね」
「見回りお疲れ様」
「いつも助かってるよ」
凛は丁寧に頭を下げ続けた。
けれど、歩きながら小さくつぶやく。
「……少し、過剰ではありませんか」
朔が隣で凛を見上げた。
「みなさん、優しすぎます」
朔は何も言わない。
「私はただ、仕事をしているだけです」
朔はゆっくり瞬きをした。
その目は、まるで「本当にそう思っているのか」と言っているようだった。
凛は視線をそらした。
「……そういう目はやめなさい」
朔の尻尾が一度だけ揺れる。
凛は手に持った紙袋や花を見下ろした。
みかん、パン、漬物、花。
どれも、商店街の人たちが笑いながら渡してくれたものだった。
少しだけ、胸の奥が温かくなる。
「優しい町ですね」
凛はぽつりと言った。
そして、少し間を置いてから続ける。
「……私たちには、もったいないくらいに」
朔は静かに凛の隣に寄った。
大きな体が、凛の足に少し触れる。
凛は朔を見下ろし、ほんの少しだけ笑った。
「あなたも、そう思いますか」
朔は前を向いた。
その姿が、なんとなく肯定しているように見えて、凛はまた小さく笑った。
交番へ戻る二人の背中を、商店街の人たちが見送っていた。
八百屋の店主が、腕を組んで言う。
「凛ちゃんは、相変わらず素直じゃないねえ」
パン屋の奥さんが笑う。
「でも、ああいう子だからいいんじゃない」
花屋の女性が、凛の手にある花を見て目を細めた。
「ちゃんと受け取ってくれた」
小学生の男の子が、朔に向かって大きく手を振った。
「さく君、またね!」
朔は振り返らなかった。
けれど、尻尾が一度だけ揺れた。
それを見た商店街の人たちは、みんな少しだけ笑った。
夕方の光の中、凛と朔は並んで歩いていく。
白と灰と黒の髪。
白と灰と黒の毛並み。
怖そうで、近寄りがたくて。
けれど、この町の誰もが知っている。
一人と一匹が、誰よりも月守町を見ていることを。
困っている人を放っておけないことを。
優しさを、いつも少しだけ不器用に隠していることを。
商店街の誰かが、小さくつぶやいた。
「いつもありがとね、優しい狼さん」
その声は、夕方の商店街にやわらかく溶けていった。
月守町交番には、狼がいる。
今日もその狼は、町の人たちに怖がられて、頼られて、愛されながら、静かに帰っていく。




