第1話「交番に狼がいる」
月守町には、少し変わった噂がある。
――月守町交番には、狼がいる。
それは、子どもたちの間で広まった怪談のようなものだった。
夕方、商店街の端にある交番の前を通ると、大きな狼の影が見える。
夜になると、白と灰と黒の毛並みをした獣が、交番の入口に座っている。
そして、その隣には狼みたいな髪をした女のおまわりさんが立っている。
「ほんとに狼なの?」
子どもたちの間では、そんな話でよく盛り上がる。
けれど、月守町の大人たちは笑って言う。
「ああ、あの交番の狼ね。怖くないよ。むしろ、この町で一番頼りになる狼だよ」
月守町交番は、商店街の端にある小さな交番だった。
古びた白い壁に、少し色あせた青い看板。
入口の横には季節の花が植えられた小さな鉢があり、窓には地域のお祭りのポスターが貼られている。
その交番に勤務しているのが、狼崎凛だった。
白、灰、黒が混ざったウルフカットの髪。
すらりとした高い背。
片目の下には、小さなほくろ。
制服をきっちり着こなし、表情はいつも静かで冷たい。
初めて見る人は、だいたい少し緊張する。
道を聞きに来た人が入口で固まることもあるし、落とし物を届けに来た子どもが、何も言えずに帰ろうとしたこともある。
そして、凛の隣にいるのが、朔だった。
白、灰、黒の毛並みを持つ大きな犬。
耳はすっと立ち、目は賢く、静かに人を見る。
狼のようにも見えるその姿は、凛と並ぶとますます噂にぴったりだった。
その日の夕方も、朔は交番の入口近くに座っていた。
商店街では、店じまいの音が少しずつ聞こえ始めている。
空は薄いオレンジ色で、月守町の街灯がぽつぽつと灯り出す時間だった。
凛は交番の机で書類を書いていた。
ペン先が紙を滑る音だけが、静かに響いている。
「……今日も平和ですね」
凛がぽつりと言うと、朔が耳だけを少し動かした。
「平和なのは良いことですよね。暇なのとは違います」
そう言いながら、凛は小さくあくびをした。
朔がじっと凛を見る。
「……なんですか。眠くありません」
凛はすました顔でそう言ったが、朔の視線は変わらなかった。
その時だった。
交番の外から、小さな泣き声が聞こえた。
凛の目つきが変わる。
さっきまで少しだけ緩んでいた空気が、一瞬で引き締まった。
入口の方を見ると、そこには小さな女の子が立っていた。
幼稚園くらいの年齢だろうか。
赤いリュックを背負い、片手にうさぎのぬいぐるみを抱えている。
目にはいっぱい涙がたまっていて、今にもこぼれ落ちそうだった。
「どうしましたか?」
凛は椅子から立ち上がり、ゆっくりと近づいた。
できるだけ声をやわらかくしたつもりだった。
けれど、女の子は凛の顔を見た瞬間、びくっと肩を震わせた。
白と黒の混ざった髪。
冷静すぎる表情。
そして、すぐ隣にいる大きな犬。
女の子の目から、ついに涙がこぼれた。
「お、おおかみ……」
その声は、ほとんど息のように小さかった。
凛は一瞬だけ固まった。
それから、少し困ったように眉を下げる。
「……狼ではありません。警察官です」
女の子はさらに泣きそうな顔になった。
凛は黙った。
言い方を間違えた、と自分でも思った。
その横で、朔が静かに立ち上がった。
「朔」
凛が小さく呼ぶ。
朔はゆっくり女の子の方へ近づいた。
けれど、近づきすぎない。
女の子の少し手前で立ち止まり、ゆっくりとその場に伏せた。
大きな体を低くして、女の子と目線を合わせるように。
女の子は、涙を浮かべたまま朔を見つめた。
朔は何もしなかった。
吠えもしない。
動きもしない。
ただ静かに、そこにいた。
しばらくして、女の子の泣き声が少しだけ小さくなった。
「……こわく、ない?」
女の子が小さく聞いた。
凛は少ししゃがんで、朔の背中を軽く撫でた。
「この子は朔といいます。怖い顔をしていますが、泣いている子にはとても弱いんです」
朔が少しだけ目を細める。
まるで「余計なことを言うな」と言っているようだった。
女の子は、涙をぬぐいながら朔を見た。
「さく……くん?」
朔の尻尾が、ほんの少しだけ揺れた。
凛は静かにうなずいた。
「はい。さく君です」
女の子は迷いながら、一歩だけ近づいた。
朔はまだ動かない。
女の子がもう一歩近づくと、朔はゆっくり鼻先を下げた。
女の子は小さな手を伸ばし、朔の頭にそっと触れた。
ふわり、と柔らかい毛の感触が指に伝わる。
「……あったかい」
女の子の声から、少しだけ怖さが消えた。
凛はその様子を見て、表情をわずかに緩めた。
そして女の子と目線を合わせるように膝をついた。
「お名前を聞いてもいいですか」
「……みお」
「みおさんですね。おうちはどの辺りですか」
みおは首を横に振った。
「わかんない……ママとお店にいたの。でも、うさちゃん見てたら、ママいなくなって……」
そう言って、みおは抱えていたぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。
凛はゆっくりうなずいた。
「大丈夫です。ここに来た時点で、もう一人ではありません」
みおは凛を見た。
まだ少し怖そうだったが、さっきよりも落ち着いていた。
凛は机に戻り、迷子の連絡を入れた。
その間、みおは朔の隣に座っていた。
朔は伏せたまま、みおのそばを離れない。
「さく君、ほんとに狼じゃないの?」
「犬ですよ」
凛が答えた。
「でも狼みたい」
「よく言われます」
「お姉さんも、狼みたい」
凛の手が少し止まった。
「……それも、よく言われます」
みおは朔の毛を撫でながら、小さく笑った。
「でも、こわくない」
凛は少しだけ目を伏せた。
「それは、よかったです」
しばらくして、交番の外から慌ただしい足音が聞こえた。
「みお!」
若い女性が息を切らして駆け込んでくる。
みおは顔を上げると、すぐに立ち上がった。
「ママ!」
みおは母親に抱きついた。
母親は何度も何度も「よかった」と繰り返しながら、みおを強く抱きしめた。
凛は二人の様子を見守っていた。
「商店街の雑貨店前で離れてしまったようです。怪我はありません。少し怖がっていましたが、今は落ち着いています」
「本当にありがとうございます……!」
母親が深く頭を下げた。
「お礼なら、朔にも」
凛がそう言うと、みおは母親の腕の中から離れ、朔の前に戻った。
朔は静かに座っている。
みおは少し背伸びをして、朔の首にぎゅっと抱きついた。
「狼さん、ありがとう」
朔は驚いたように瞬きをしたあと、じっとしていた。
その尻尾が、ゆっくり一度だけ揺れた。
凛はその姿を見て、少しだけ口元を緩めた。
「狼ではなく、犬ですけどね」
みおは笑った。
「でも、優しい狼さん」
凛は何も言い返さなかった。
親子が帰っていくと、交番にはまた静かな時間が戻った。
外はすっかり夜になり、月守町の街灯が道を照らしている。
凛は入口に立ち、遠ざかる親子の背中を見送った。
「……怖がらせてしまいましたね」
朔が凛を見上げる。
「あなたも同罪です」
朔は鼻を鳴らした。
凛は小さく笑った。
「でも、最後は笑っていました」
夜風が、凛の白と灰と黒の髪を揺らす。
その隣で、朔が静かに座る。
月守町交番には、狼がいる。
怖そうで、少し近寄りがたくて。
けれど、泣いている誰かのそばに、静かにいてくれる狼が。
その噂は、今日もまた少しだけ、町の中で優しく形を変えていく。
月守町の夜に、交番の明かりが灯っていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
小説を書くのはこの作品が初めてなので、まだまだ不慣れな部分もあると思いますが、狼崎凛と朔、そして月守町の雰囲気を大切にしながら少しずつ書いていきたいです。
モチベーションにものすごくなるので、
感想やコメントをもらえると嬉しすぎます。
これからも『狼のおまわりさん』をよろしくお願いします。




