第32話 背中の位置
子どもの頃、父はほとんど何も言わなかった。
危ない場所では、ただ前に立つ。
俺は、その背中の少し後ろに立っていた。
それだけでよかった。
そんな俺は歩道と車道の境界を見る。
立ち位置は、いつも同じだ。
歩行者を、第三者の“安全”を背負い、現場の作業しやすい“安心”を背負う。
いや、背負ってなどいない。
ただ立っているだけだ。
“背負う”それは責任を負う事を意味する。
別に責任を逃れたいわけではないが、進んで取り込むものでもない。
“そんなの面白くないじゃないか”
そんな言葉を自分が使うとは思わなかった。
心の片隅に微かにある、正体のわからない衝動。
こいつが澪さんのいう“収まりの良いほう”なのか?
そうする事で“違和感”はなくなるのか?
……だが。
それは“俺”なのか。
わからない。
父は、迷わなかった。
少なくとも、俺の前では。
危ない場所では、ただ前に立つ。
振り返らない。
説明しない。
それが父だった。
だが――
一度だけ。
「俺も、父さんみたいになるの?」
何気なく言った。
本当に、何気なく。
父は答えなかった。
ただ、足が止まった。
ほんの一瞬。
背中が、わずかに固くなった。
それだけだ。
それだけなのに、
俺は覚えている。
長い沈黙のあと、
『お前のなりたいものになれ』
低く、呟いた。
顔は見えなかった。
父は、道を決めなかった。
その背中のまま、今も立っている。
あの日から、立つ場所を探している。
前に出るのか、後ろに立つのか。
進んでいるのか、退いているのか。
わからないまま積み上げた日々。
これが“俺”なのか。
父は前にいる。
俺は――
どこに立っている。
目が覚めた。
天井がある。




