⑥
香名は敦也の服を握り締め、瞼を震わせた。ビクビクと痙攣する瞼。血を媒介とした何条もの水の糸が頬を伝い、唇を伝っていく。鼻を啜り、化粧はボロボロになった。大和撫子を台無しにし、女性らしさの欠片もない。泣き虫な女の子のように、香名は泣きじゃくった。敦也は泣きじゃくる香名を抱き締めつつ、あのときの母親を思い出した。敦也の目にも涙が溢れ、決壊する。
――あの人も……こんな気持ちだったのか。
好きな人との別れは寂しい。どんな形でも、相手の気持ちを裏切っても、たとえ世界を敵に回してでも、愛する人への想いは変わらない。永遠に生き続ける、一つの命のように。それが人を愛すということ。大学生になって初めて、敦也は母親の気持ちを理解できた。あんな父親でも、母親は大好きで別れたくなかったことを。敦也も別れたくない人ができたことを。どんなに手を伸ばしても、届かない想いがあるということを。
香名は敦也のことが好きだが、相思相愛じゃない。香名は誰も愛さない。香名は誰も愛せない。それでもいいと思った。
血が滲むまで唇を噛み締めて、敦也は溢れそうになるありったけの想いを呑み込んだ。
「じゃあ俺が……お前のために、生きてやるよ。お前の分まで、生きる……」
「ありがとう……」
香名が笑顔になった。涙を拭って、晴れ渡る青空のような爽快な笑みを浮かべた。
――まただ。また……お前は平気で俺を傷つける。
最早、自分には香名の人生になんの影響力もないことを知った。
言葉だけでは人を変えられない。当人が自覚し、過ちを認め、根本的なところから変わらなければダメなのだ。考え方から変わらなければ人の死は免れない。過ちを断つことが自身の命を絶つことだと思っている者には、何を言っても無駄なのである。そう思う者の心は一途。何もかもを捨て去る覚悟で、自分の命を投げ打つのだ。悲しき深い業に抱かれ、死んでいく。死しか救われる道はない。仏になって、生まれ変わることを望むのだ。
今度はもっと良い存在に生まれますようにと祈るのだ。
敦也はそれを認めない。自殺は罪だ。自分を殺すことは、逃げることと同じだと。本当に罪を償いたい人は、自殺しない。生きて、生きて生き延びる。人生という荒行、苦行の中で偉業を成し遂げる。やらねばならぬことを、成すために生きる。辛く苦しい戦いを経て、死という安楽の世界へ旅することができるのだ。生きることは辛い。だが、その辛さ以上にたくさんの幸福が得られる。そう教えてくれたのは、香名椎菜ではないか。
「椎菜……。最後に一つ、願い事を聞いてくれないか」
「いいわよ。言って」
「恋人になりたい」




