⑤
触れたら自壊してしまいそうだ。病んでいる心を曝け出す香名を、敦也は抱き締められなかった。抱き締めたら、そのまま逃避行でも実行してしまいたかった。強くて弱い彼女の心を、溶かすことはできないだろうか。こんなに心を開いてくれているのに、過去の話を屑々(せつせつ)と語ってくれているのに、何もしてやれない。何もできない自分が悔しい。恨めしい。もどかしい。恥ずかしい。ただ傍にいて、彼女の刻々と迫りくる死を見届けることしかできないのだ。
――俺は……やっぱ、こいつには相応しくねえな……。
童話に出てくるような白馬に乗った王子様なら、もっと気の利いた言葉を言えるのだろう。
その日は一日中勉強して、ぐったりと死んだように眠った。
束の間の休息は終わり、また一週間が始まる。電車通学だったが、香名家の養子になったので、車で送迎してもらえることになった。陽太がこの話を聞いたら、羨ましがるだろう。電車通学でも勉強は怠らないようにしたと思うが、車の中だと勉強も捗る。優秀な家庭教師もついていることだし、殊更に。最高の環境を提供してもらえているのだ。受からなかった、なんて絶対に言いたくはない。絶対に受かろう。
「そこ、暗記し直して」
香名に問題の箇所に指を差された。赤いペンで訂正される。
「マジ? 間違ってるか……」
「文字自体は間違ってはいないわ。繋げ字で書いていたでしょう。細かいところが間違ってるから、早めに修正した方がいいの。こういうところで手抜かりが出てしまうと、せっかく覚えているのに、もったいないことになる。一点が命取りになるわよ。あなたは一点でも多くの点を稼がなくちゃ。満点で合格するくらいの意気込みを持って臨みなさい」
「そうか……覚え直す」
「あなたならできるわ。なんてったって、私がついているもの」
「だな。お前がいれば、百人力だ」
「百万人力よ」
「マジでそうだから、なんとも言えんな……」
敦也はこめかみを押さえて、くしゃくしゃに笑った。香名もクスリと笑った。
最近、香名はよく笑うようになった。敦也がそうなったから、香名も笑うようになったのかもしれない。これは劇的な変化と言っても過言じゃない。香名の笑顔は誰よりも美しく、素敵で無敵な笑顔なのだ。見られる日は滅多にない。彼女の笑顔一つで、至上の幸を得られる。
「もっと笑えよ」
「……そう言われると、笑いたくなくなるわ」
「俺の前でだけ笑えよ」
「もう恋人じゃないんだから」




