⑨
――このままこいつを……俺のものにしたい……。
だがそれは、叶わぬ恋。きっとこの先に待っているのは、想いの届かない未来。この気持ちはそっと胸に仕舞い、やがて塵となって風化してしまえばいいのに。そしたら、どんなに楽になれるだろうか。こんなに胸が張り裂けそうになることも、なくなるのに。
「ごめんなさい。私はあなたの気持ちをわかっていながら……あなたを……」
「謝るなよ。お前は酷い奴だな」
香名はええと涙ぐましく微笑んだ。どうして涙を浮かべるのだろう。敦也は香名を責めた。いつも敦也のことを考えていて、自分のことを顧みない。自分が大嫌いな香名を、敦也は叱責する。もっと自分のことを好きになれよと。もっと愛して、身も焦がれるようになれよと。ナルシシストになり切れない香名椎菜を、誰よりも愛している。
「お前が自分を好きにならなきゃ、お前は救われないだろ?」
飾らない言葉ではっきりと伝えても、どれだけの想いを以てしても、香名の心は動かざること山の如し。香名椎菜を救える人間は、この世に一人として存在しない。
「あなたのことが好き。だけど、これは……恋じゃないの」
「……わかってるよ。それくらい」
「ごめんなさい。あなたの気持ちに応えられなくて。恋心を持っているわけでもないのに、恋人になったりして。あなたの好意を裏切るようなことをして。私は酷い女ね」
香名は顔を覆って、首を振った。自己嫌悪に陥り、激しく己を詰った。
「でも、そんなお前のことが好きなんだよ。悪いことは悪いってちゃんと言えるお前のことが。反省する心を持っているじゃないか。俺は……お前に死んで欲しくなんかない。お前には生きて欲しい。俺を生かしたんだから、お前も責任取れよ。責任取って生きろよ。生きて、生きて、生き延びて……。これからも俺のこと、全身全霊で助けてくれよ。俺じゃダメなのか?」
敦也の熱い愛の告白も、彼女の虚しさを埋めてくれない。何を言っても、何をしても、彼女の決意は揺らがない。自殺を決意した人間を止めることは不可能なのだ。
顔から手を離した香名の表情は、まるで全てを失い慟哭する怪物のようだった。手を震えさせ、がちがちと歯を鳴らし、目を見開く。
「私は……本当なら今すぐ死んだ方がいいほどの大罪人なのよ。でもあなたを救うために、私は今もぼんやり生きている。あなたはまだ完全に救われていない。私がいなくなっても生きていけるまで傍にいる」
異常だった。精神を患っている人のように、自我を失っている人のように見えた。多分、敦也は香名を怖れた。一緒にされたくないと思ってしまった。酷いのは香名ではなく、自分だと敦也は悟った。好きな人を怖いと思っている自分を、許せなかった。
きっと気づいている。敦也が香名を心から信じ切れず、怖れていることに。
香名の行きつけの板前寿司屋に到着。予約済みだったので、出迎えてくれた。寿司職人の見習い達がねじり鉢巻きをつけて忙しなく働く。三角帽を被った寿司職人は板前で寿司を握り、注文を聞いては頻りに大声を上げていた。敦也達は大好きな寿司を頬張った。特上かつ極上の切り身をシャリの上に乗せる。キラキラと宝石のように輝いていた。敦也にとっては宝石よりも価値があり、からからに乾いた舌を満足させるほどに美味だ。こんなものは食べたことがないと敦也は感動する。小さい頃からこういうものをよく食べていた香名は、敦也の感想をとても新鮮そうに聞いていた。テレビの『食レポ』さながらにべらべらと喋った。
高いものを食べていた香名達は、敦也が心から喜んでくれて素直に嬉しかったのだ。
トロも口の中でとろける。回転寿司屋のトロとは比べ物にならない、大間の本マグロの味だ。最高級で上品質な味わいを、敦也は堪能した。いつもより食欲が旺盛になり、皿の数もどんどん増えていく。深く、まろやかでコクのあるような味わい。それでいて舌触りが心地よく、口の中で弄んでしまいたい。ああ、この味を身体に刻みつけたいと敦也は心に思った。
「うまい、うまいよ……。ありがとう、みんな……」
ボロボロと瞳から滴が零れ落ちる。多量の唾液が分泌される。敦也は感涙した。
バカみたいにバクバク、ガツガツと品のない食べ方をして、敦也は泣きじゃくった。幸せを噛み締めんばかりに、汚く咀嚼音を鳴らして、他の客を困らせた。
他の客がどう思おうが、どうでもいいのだ。初めて得た幸せなのだ。心から美味いと思える食べ物を、二十年の月日をかけてやっと食べられた。やっと頂点に辿り着けた。
香名も祖父母も敦也を微笑ましく慈愛に満ちた目で見守っていた。
「良かったわね、敦也」
べたつく手が、もっと速く、もっとたくさんの極上を、と留まらぬ。初めて食べた極上の寿司は、敦也の冷え切っていた心を更に溶かし、潤沢にした。




