⑧
敦也を轢き逃げしていった加害者は、近くにいた人がナンバープレートや人相を覚えていたことにより、足取りを掴むことができた。一瞬で完全に記憶する記憶力には舌を巻く。
犯人は車からはすぐに下りたようだが、目撃者がいたり、指紋が残ったりしていた。詰めが甘い。目撃者の人相描きを頼りに、鑑識が犯人を特定。正義感に満ち溢れた人々の、流れるように華麗な捜査に屈し、犯人はお縄についた。
どうやら、敦也を敵に回したのが、間違いだったようだ。
すべての人間の指紋は国が管理しているものではないので、指紋を採取したところで年齢や性別は特定できない。だが不審な人物を目撃した人がいれば、その人相に似た人に協力してもらって、犯人の指紋と一致するかどうかが明らかになる。警察の捜査を断れば、自らは怪しい人物であると自白しているようなものだ。協力しない人はやましいことを隠していると勘繰られるのは、世の常。求められれば、人々は捜査に必ず協力しなければならない。
犯人の指紋が見つかったのは、ハンドルだけではない。さまざまなところから同一人物の指紋が発見された。犯人は逮捕され、今現在は拘置される身だ。手術費用とばかりに賠償金の支払い命令も出るかもしれない。被害者の敦也が外出不許可で裁判所に出向できないので、裁判は開廷しない。幸い、後遺症も残らないそうなので、快復したら示談金で事なきを得る予定だ。
――飛び出しちゃった俺も悪いんだし、あまり大事にはしたくないよな。
これで、ひとまずは義理の祖父母に迷惑をかけずに済む。敦也はほっと胸を撫で下ろす。
あの人達は迷惑だとは思っていないだろうが、敦也は手を焼かせたくはないのだ。あんな優しい人達から金をこってり搾り取るような真似は、したくない。どんなに金を持っていようとも、じり貧だった敦也にとって、金は一銭でも大事。金がかかる、手のかかるような義理の孫になりたくない。温かい家庭を体験できるだけ十分だ。できることなら、迷惑になるような一切合切はかなぐり捨てて、悪縁も根元から断ち切りたい。
老い先短いかもしれない優しい彼等に、自分のことで心労させたくない。
リハビリテーション室にいる看護師が、大きな声で敦也に声かけをする。
「敦也くん、頑張って。後少しだから」
敦也はスロープを握り、ちょっとずつ脚を動かした。前に前にと逸る気持ちを抑えながら、ゆっくりと床を裸足で踏みしめていく。床の感触が伝わり、皮膚が温度を知覚。ひんやりとしていて硬い床。動けば動くほど痛くなる身体。歯を食い縛り、生きているという実感を覚える。
――俺は今……、ちゃんと生きてる。
以前までの敦也なら、頑張れって、何を頑張ればいいのかと反抗していたかもしれない。今までずっと頑張ってきてダメだったのに、今更何を頑張れと。馬鹿らしくて、何もできなくなってしまう。今まではそうだった。これからは違う。やりたいこともできて、叶えたい夢もできた。それに向かって頑張ろうと、努力しようと敦也は思っている。
まずはここから、一歩を踏み出す。進みゆく足で未来を、明日を迎えに行こう。




