⑥
「……ごめんね……敦也。お母さん、最低な人間で……お前のことを何一つ考えてなくて……こんな母親でごめんね……。今までありがとう、さよなら」
声を出そうにも、空気の音か擦れた音しか出なかった。言いたいことも、言えなかった。今までの文句も、今までの感謝も思いついているのに、言葉にできなかった。
母親は去ってしまった。寂しい背中が、敦也の目に焼きつく。
「……あの人もまた、救われるべき人……。可哀想な人」
香名は心痛な面持ちで呟く。
――あれ? でも特別養子縁組の件は、承諾していなかったような?
書類にサインはしていないし、敦也の意見も聞いていないので、あの話は無効だ。母親がこの場からいなくなっただけ。つまり、養子には出さないが、世話を任せるということか。
なんだ、今生の別れみたいな表情だったから、てっきり親子の縁が永久に切れるものかと思っていたのに。心配して損した気分。でも、断るつもりだったから、いいや。
暫くすると、香名の祖母と祖父が来た。重そうなケースを持って、車で来てくれたらしい。香名は祖父母を紹介し、両親がいないことも敦也に伝えた。敦也は暫く経っても何も声を発せなかったが、香名はそのことはわかっていたようだった。香名の祖父母は敦也の顔をじっと覗き込んで、優しい声をかけた。今まで辛かったね、今まで大変な思いをしていたねと。敦也は母親のことは大分嫌いではなくなっていたが、それでも辛くて苦しい思いが先行した。身体中の痛みと苦しみと口の中の苦さで、涙が溢れてきそうだった。鈍い痛みを、人生の辛苦を、辛酸を嘗めてきた敦也は我慢した。年老いても優良で優美な人に、心配させまいとして。
「これからあなたを、香名家に迎え入れようと思います」
香名の祖母が丁寧に喋った。優雅に笑い、お辞儀をする。人の良さと育ちの良さを表現している。敦也も思わず改まろうとして起き上がってしまった。そしたら全身にビキリと激痛が走り、敦也は顔を顰める。香名の祖父母がそのままでいいと敦也を気遣う。敦也は遠慮せず、仰向けに寝たままで失礼した。
「椎菜ちゃんが、きみを迎えたいと言っていたので。愛孫の椎菜ちゃんが言うんだ。手術の費用もすべてわしたちが負担しよう。気にしないでくれ。数十万円なんて、たいした額ではないよ。わしたちは今日から家族だ。何も遠慮することはないよ」
ボディビルダーもびっくりするほどの巨躯だった。香名の祖父も大らかな人だ。敦也は頷いて、義理の関係を結んだ。特別養子縁組の件は白紙になったので、敦也の姓が香名になることはない。それでも家族だと言ってくれる香名の祖父は、敦也の心を豊かにさせた。
「短い間だったけど、デートには行けなくて残念だったわね」
「椎菜ちゃんは、敦也くんとのデート、楽しみにしていましたよ」
「……そ、か……」
蚊の鳴くような声で、敦也はどうにか一言だけ絞り出した。数日動かさなかったせいで、口の筋肉まで衰えている。




