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香名はポケットから一枚の紙を取り出し、律儀にルールを守る。当事者間でも、口約束が契約として成立することはない。こどもは誰に育ててもらうかを自分の一存で選べないが、成人した敦也の意見は尊重される。特別養子縁組――つまり、親子の縁を法的に切る場合は、裁判所に行って、必ず公的な手続きをしなければならない。そこで、証人となる人物に状況を正確に記憶してもらい、ボイスレコーダーを準備しておけば、確固たる証拠となり、裁判では有利に働く。香名はその点、抜かりない。
なんせ、ここにいる医師は、弁護士でもあるのだから。
そして公的な文書にサインをすれば、親子関係は法律の上では絶縁状態になる。血の繋がりはあるし、親子の縁は切っても切れないが、まともに会うことはできなくなる。それに、遺産も相続できなくなるので、赤の他人になるということだ。好きなときに好きなだけ愛情を注げなくなる。親子の時間は法で拘束される。それが、実のこどもを養子に出して、親権や相続権の一切を破棄する人間に課せられる重みだ。
母親が首肯しなければ、契約不履行となり、関係はそのまま。敦也の生活は今まで通り。最低な暮らしをし続け、ストレスのたまる生活が長い間続くだろう。
敦也は、香名家の養子になりたいとは考えていない。
「そんなの、言うわけないでしょう……。あなたみたいな得体の知れない人になんか、任せられるわけ……。私が必死こいて働いて稼いだ金で、今までずっと養ってきたんだから……最後までやらせなさいってのよ。今までの苦労を水の泡にさせるな、外道め……」
僅かばかりの愛情はあるのか、離れるのは惜しいらしい。自身の手を離れるようになれば、未練が如実に表れるようになるのだろうか。母親というものは、よくわからない。泣き崩れるように、母親は涙を流した。目薬も持っていない。鼻も目の周りも赤い。偽物の涙には見えなかった。
――母さんは……俺のことをどう思ってるんだ……?
母親の真意が杳として見えてこない。母親を理解しようと頭を巡らせても、知識も経験も、何もかもが足りない。表面上のことだけしか、わからなかった。
香名は呆れて物も言えない。一呼吸おいて、ため息を吐いたのち、静かな声で言った。
「そう。所有物扱いね。あなたの息子は物じゃない。人なの。命という燃え盛る炎を持った、人なのよ。人が丹精込めて創った、仮初めの命じゃないの。人に暴言を吐かれれば傷つくし、暴力を受ければ血が出るの。繊細で、精細な中身があるの。自分の頭で動いて、喋って、考えて、書いて、生み出すことができる。より良いものを創り出そうと、自分を磨き、他人に勇気を与えることもできる。色々なことを知り、追究する。それが人なのよ。人は成長するのだから、私に預けて、成長させてあげなさい」
「……私が産んだんだから、物扱いして何が悪いって言うの」




