①
あの女の名前は、香名椎菜。変な名前とケチをつける敦也。
陽太談だ。知っていても名を呼ぶつもりがないので、見るまでもなく嫌そうな顔をする敦也。
政治学の講義は陽太も取っている。一つ席を空けて座っている陽太が、訝しげに口を歪めた。
「なんでそんな顔するんだよ」
「俺があいつのこと、だいっっきらいなの、知ってるよな……? 名前なんか、無駄情報だって。覚える気ねえのに。陽太って、たまにお節介だよな」
「美人の名前くらい、憶えておいても損はないよ。だって、憶えていたら、僕等のことも憶えてくれるかもしれないし。美人の友達って、目の保養だし、お得だと思うけどなー」
「そんなことないと思うけどな。あいつ、他人には興味なさそうだし」
敦也がボソッと台詞を吐くと、陽太は不思議そうな顔をして言った。
「それは敦也も」
敦也はドキッとして、陽太を見た。陽太は真剣な目で敦也を見据えていた。陽太が先に目を逸らして、教室のドアの方に注目した。ドアが内側に開く。
「……先生来たよ」
「は? あ、ああ……。そそそうだな」
敦也は面食らって、間抜けな返事をしてしまった。決まって、政治学の准教授は遅刻する。重役出勤さながらに、遅刻しても謝らない。偉そうなのは偉いから。それを不満に思う学生もいるが、悪いところよりいいところの方が多いので、人気の講義だ。講義は五分前に終わり、学生がちょっと遅刻したくらいならば遅刻扱いにはしない。人気を博す理由はそれ。
甘くなければ、学生は教員を好きにならない。学生もこどもなので、ゲンキンなのだ。
人数が多くて後ろの方まで声が届かないので、准教授はマイクを持って挨拶をした。
「それでは、講義を始めます」
「……きたきた」
陽太は嬉しそうにシャープペンシルを回して、ノートとレジュメを机に並べた。
――なんでいつもこいつは嬉しそうにするんだか……。
たかが講義。されど講義。陽太は勉強熱心で、特に政治学が好きなのだ。将来は政治家になりたいそうだ。一週間に一度しかないこの講義が、楽しみで仕方がない様子。敦也もこのくらい熱中できるものがあれば、生きることが辛いなんて思わずに済んだかもしれない。敦也は陽太が羨ましく見えた。今の自分は、何にも情熱を注げないから。燃え尽き症候群なのかもしれない。
無意識のうちに、敦也は陽太の横顔を眺めているのだ。しかし、陽太は講義に集中していて、敦也の視線に気づかない。陽太は将来、大物政治家になるかもしれない。




