第一七二話 焦眉の即位
董卓は飽くなき野望の為なら、手段を選ばなかった。
九月を迎える前に董卓は、独断で皇帝の廃位を実行する。董卓は物言わぬ群臣を南宮の崇徳殿の前に集めた。
何のために集められたのかは、そこにいた群臣の大半が予見していた。しかし、董卓が発案した皇帝廃立案に意見しようという者は、もはや一人としていない。
「さて、早速だが本題に入ろう。何度も言うようだが、皇帝は年齢に見合わぬ稚拙な態度で振る舞い、宦官どもから救出した際には泣きじゃくって話もままならない始末。とても天子としての責務を請け負える御大ではない。対して、陳留王は幼年に見合わぬ聡明な弁説で、怯えも物怖じもしない立派な態度であった。臣下として不本意ではあるが、陛下には天子の座から降りてもらうしかない。その後は弘農王に封じられることになるだろう。異議のある者はいるか?」
董卓の不気味な声だけが宮殿内に響いたが、静寂が虚しく漂うだけだった。
「沈黙が答えか。それもよかろう。では、異議なし……という事だな。それでは、新たな天子を擁立する為、陳留王を皇太子とする。もう一度聞こう。異議のある者はいるか!」
再び静寂が辺りを襲ったが、王允が静かに董卓の前で拝礼すると、他の群臣たちも後に続き拝礼を行った。
王允を筆頭に群臣たちの多くが、宦官に拐われた時の皇帝劉弁の様子を知らない。この青年皇帝がそこまでのだらし無さを露呈したとは思えない。
今や異論反論を唱える気骨ある者は、すでに雒陽から出奔して身を眩ませている。
こうして皇帝となって間もない劉弁の廃立が、慌ただしく決定事項となったのだった。
齢九歳の異母弟、陳留王の劉協が皇太子となった。
董卓が幼い皇帝を傀儡とし、政権を掌握する為の政変であるのは、誰の目にも明白である。
さらに董卓は、劉弁の母である何太后の罪を、朝議にて追求し承認させた。
「罪状は陳留王(劉協)の養母、董太后を死に追いやった罪。先帝(霊帝)の実母(董太后)を殺した罪。兄の何進と共に董一族を滅ぼした罪だ」
董卓と霊帝の母である董太后とは、血縁関係にあるかは定かではない。
古代中国では同姓であることは同じ一族とみなされていた。同姓だと婚姻もできなかった。
同族であるかどうかは董卓にとって重要ではないが、外戚と同族という大義名分だけが欲しかった。
「これでお膳立ては整った。九月になったらすぐに新しい皇帝の即位式を行うぞ。すぐに用意しろ」
尚書令の王允は政務を取り纏める役職だ。董卓は早急に即位の準備を王允に命じた。
「九月にですか? 改元して間もないというのに、これでは昭寧の元号は三日しかない事になりますぞ」
「そんな事は知ったことじゃない。とにかくすぐにやれ。即位式と元号は尚書令に任せる」
「しかし、私の権限では……」
「貴様の権限ではない。このワシの権限で即位と改元を行うのだ。いちいち口答えするでない!」
「御意……」
王允は従順な側近を演じるしかなかった。側にいて董卓の暴政を制御するのが、自分の責務だと言い聞かせた。
九月になると、新皇帝となる劉協の即位式は慌ただしく行われた。元号は昭寧から永漢へと改元した。
元号を永漢としたのは王允のせめてもの抵抗だった。漢室の世を永続させたいという願いを込めてのことだ。
永漢という元号に関して、王允の含む所を察していた董卓だったが、敢えて黙認した。
今の董卓にとって改元することなど、適当な理由をつけていつでも出来る力があるのだ。
即位式では太尉の劉虞が皇帝の即位時に詔を奉読し、先帝から預かった伝国の玉璽と綬(紐)を新皇帝に手渡した。
玉璽に関しては、宦官たちの掃討の際に、紛失したのではという噂もあった。もしかしたら、この日のために模造品を作らせたのかもしれない。
「先帝よりお預かりした伝国璽を陛下に奉らん。天の命を受け、永久に栄えしことを寿がん」
劉虞が印綬を皇帝に手渡すの見て、董卓はのちに李儒に耳打ちした。
(次はワシが太尉になるぞ――)
即位の礼が一通り終了すると、群臣たちは平伏して万歳を斉唱した。
合わせて新皇帝即位時の恒例として、全国的に大赦(恩赦)が発布された。
即位式の二日後、処分を言い渡された何太后は永安宮に幽閉される。
実の一人息子である劉弁を巡っての後継者争いをし、政敵でもあった董太后の住んでいた永安宮に幽閉されるとは皮肉な話だ。
幽閉された二日後に、何太后は突然の死を迎えた。董卓の側近の李儒が服毒自殺を強要したといわれている。
九月乙酉(十二日)、董卓は太尉(国防大臣)に就任した。太尉だった劉虞は大司馬に昇進。
大司馬は太尉より格上の軍権位だが、現在は名誉職となっていた。実質上の軍権は、太尉となった董卓が預かることとなる。
董卓が司空から太尉に鞍替えしたのは軍事権の掌握の為でもあった。それに付随して前将軍の軍位と、郿侯の爵位も手にした。
郿県は西方の古都、長安のさらに二百五十里の西にある。董卓の本貫である涼州隴西郡に近い。その郿県を所有する侯爵となったのだ。
数日後、他の二つの三公である司空は楊彪、司徒は黄琬が選ばれた。二人とも元々は清流派の士である。
そして今度は新皇帝から、太尉の証となる鈇鉞という刑具を与えられる。
皇帝より委譲された鈇鉞は、生殺与奪権の象徴である。華やかな装飾を施されたそれは、皇帝の軍団を預かり兵権を行使するという証なのだ。
これにより董卓は皇帝直属の虎賁兵を預かる権利を得た。選りすぐりの兵士を集めた精鋭の部隊だ。
董卓は鈇鑕を携えたまま、黄琬と楊彪を後ろに従えて皇帝の足下で拝謁した。三公が勢揃いして直に皇帝に上書をしたのだ。
「このたび陛下に上書奉るのは、嘗て貶められし党人たちの清廉潔白を明らかにし、貶められた名誉を恢復せんと欲するものであります」
この上書は、二十年前の党錮の禁により刑死した党人の無実を訴え、名誉回復を嘆願するという内容だった。
志半ばで亡くなった党人たちに爵位を賜り、その子孫を抜擢して登用することを願いでたのだ。
これは董卓が名士らの信頼を得る為の人気取りである。それと共に、王允や元清流派の志士たちの心からの嘆願でもあった。
(宦官や外戚どもがいなくなった今、清流派たちの力を借りねば政権の安定は保てぬ――)
董卓は武威を頼りにする粗野なだけの荒くれ者ではなかった。計算高く慎重に政権を侵食していったのだ。
九月の雒陽は雨が多かった。後漢の暦では冬に近い秋であるが、この年は六月の夏頃から雨量が格段に多かったのだ。
この季節はずれの雨は、激動の数ヶ月を洗い流す雨か……それとも漢朝の終焉を告げる涙の雨か。
翌十月には雪が降り積もり始めた。この時代の歴では十月は真冬の時期。
またこの月は并州西河郡で郭泰と名乗る首魁が率いる白波賊が、隣接する河東郡に南下して周辺を脅かした。
郭泰という名は二十年前に他界した儒学の大人物と同名である。同じ并州の出身で西河郡と東に隣接する太原郡の英雄に、その名を肖ったのかもしれない。
元々は黄巾賊の残党が徒党を組んだ十余万の大軍であった。義賊を気取った反体制軍団の可能性もある。
反乱が起こったのは昨年だが、朝廷軍は討伐に失敗していた。白波とは谷の名で、そこで蜂起したことで白波賊と呼ばれるようになった。
董卓は娘婿の牛輔を中郎将に任じ、同じく十万の軍で討伐に遣わせた。満を持して出陣した牛輔は、敢え無く敗退して河東郡安邑県へと撤退した。
雒陽では牛輔の大勝利と報じたが、実際は白波賊を金銭と契約で懐柔したのだった。




