第一七一話 追跡
董卓はあからさまに不機嫌な態度で蔡邕の話を聞いている。
「それでは話をもどしますが、盧尚書は儒学の大家(大研究家)であり、多くの門下生に敬われています。処刑しようものなら、彼らに反乱の口実を与えてしまいます」
「そんな事は分かっている。脅してやりたかっただけだ。だが、このまま見逃す訳にはいかん」
「では、減刑でなんとかなりませぬか。無用な悶着は避けねばなりませぬ」
「ふん……、仕方ない」
董卓は渋々ながらも蔡邕の諌言を受け入れ、盧植の処刑は諦めて、免職にとどめた。
「廬尚書、蔡祭酒から、貴方を京師の外へ逃がすように言付けられました」
廬植のもとに助言を告げに来たのは、議郎の彭伯という男だ。
張譲の皇帝拉致の際は、老齢を押して奮戦した廬植だったが、その傷はいまだ癒えておらず体力にも限界を感じていた。
「いや、私ももう老いた。この辺で潔く散るのも悪くない」
「かつての恩を今こそ返したい……と。蔡祭酒はそう仰られているのです」
蔡邕と盧植はかつての旧友だった。蔡邕が宦官の悪事を告発し、逆に并州へ流刑同然の左遷を受けた折、唯一人だけ擁護したのが盧植だったのだ。
「あの時の事か……。ならば、友の情に答えるのもまた悪くない……」
こうして盧植は、図らずしも彭伯の手引によって人知れず京師を去った。
「廬尚書が、病が重くなったので帰郷すると……書き置きを残して、消えました」
「なんだとっ。すぐに追手を出せ! 逃してはならぬっ」
廬植の失踪を知って、董卓はすぐに追跡させた。だが盧植は迂回して追跡を躱し、故郷の幽州涿郡へは帰らず、隣の上谷郡の軍都山に隠棲した。
董卓が放った追手は、ついに盧植を捕らえる事ができず、そのうちに追跡を諦めた。
廬植が京師から失踪した頃、袁紹は個人的に呼び出されて、董卓と食事の席に着いていた。
「単刀直入に言おう。折り入って話したい事とは、陳留王の事だ。君ほどの聡明な男なら、ワシの言っている意味がわかるだろう?」
(まさか、皇帝の廃立にまで口を出すようになるとは――)
董卓を雒陽に召喚し入京させた事を、袁紹は深く後悔した。
「私の一存では……決められません。叔父にまず相談させてください。大義名分を得るためにはまず深慮が必要です。貴方を京師に招いたのは、この私です。悪いようにはしません」
「そうか。良い返事を待っているぞ」
袁紹はその場凌ぎの言葉で取り繕った。董卓はすっかり袁紹を信用していたのだ。
(梟雄の大逆への片棒を担ぐのは御免こうむる――こうなれば姿を消すしかない――)
袁紹は取る物も取り敢えず、その日のうちに雒陽から姿を消した。
その際、上東門に袁紹の官位である司隷校尉の印綬(官位章)を掛けて行った。
まさにそれは、露骨に董卓への叛意を示す行為だった。
「おのれ、どこまでもワシを馬鹿にしおって! 廬植も袁紹も二人ともすぐに殺しておくべきだった。伯喈っ、お前の言う通りにしたのに、どういうことだ!」
「まさかこのような事になろうとは……。しかし言い訳は申しません。この責の処分は甘んじて受けます」
「ふん! 処分の沙汰はおって伝える。覚悟しておけよ。もういい、下がれ」
殺意さえ芽生えた董卓だったが、蔡邕への処分は保留とした。蔡邕は有用な人物で、今後の政権安定に欠かせない存在だ。
蔡邕がおとなしく下がると、董卓はすぐに別の者を呼んで小声で耳打ちした。
(どんな事をしても、袁紹を見つけ出して生きたまま捕らえて帰れ。報奨金もつける)
廬植の時のように、董卓は密かに袁紹を指名手配して、追っ手を差し向けた。
しかし董卓による袁紹の捜索は、すぐ袁一族の知る所となり、董卓への反感が宮廷内でも強まっていった。
それだけ、袁紹とその一族の持つ影響力は大きかったのだ。
「行方不明の袁本初に、報奨金をつけて捜索させているというのは本当でございますか?」
「冀州に逃げたという情報は掴んでいる。ワシは袁家など恐れておらん。生きたまま捕らえて、目の前で処刑せねば気が済まん」
「お待ち下さい。そんな事をすればこの京師のみならず、中原に反乱の火種を蒔く事になりますぞ」
蔡邕に代わって袁紹を擁護したのが、鄭泰だった。
「このまま袁紹を見逃せというのか? 貴様も反逆者を擁護するか」
鄭泰もまた蔡邕と同じく董卓の召喚断って、官界から去った身だった。
だが、董卓の暴政に歯止めを掛けたい一心で、再び京師に戻った男だ。
「この機を利用して、逆に昇進させてやりましょう」
「意味がわからんぞ。ふざけているのか」
「まだこの事は世間には知られていません。ですから、昇進の為に冀州に送ったという事にすれば良いのです。それならば、世間に波風立たせず袁本初に近づくことが出来ます」
「なるほど。それならば生きたまま捕らえられるな」
「いいえ。本当に昇進させて飼いならすのです。そうすれば董司空の評判も鰻登り、袁家を敵に回す事もありません」
「反逆者を昇進させるだとぉ!? くそ忌々しい!」
董卓の怒号が宮廷内に響いた。だが思う所があったのか、一旦その怒りを収めた。
「……だが、其方の言う事にも一理ある。袁家を敵に回すのは、今は避けたい所だ」
「冀州の勃海太守が現在不在です。あそこなら、京師から離れており安心かと。かと言って幽州ほど遠くはないので、監視するのに丁度よいと思われます」
「仕方がない。袁紹に関しては貴様に任せよう。好きにするがいい」
董卓は渋々承知した。袁一族を通じて使者を出し、逃亡中の袁紹に恩賞の沙汰を伝えるようにした。
袁紹は冀州でも最大の都市、鄴に潜伏していた。袁紹にゆかりのある地ではなかったが、大きな都市には大抵の場合、縁故を通じて袁一族の人脈があった。
董卓からの使者もまた袁一族の縁ある者が選ばれ、警戒されぬように一人でやってきていた。
「それでは董司空より言付かっている書簡をお渡しします。今ここで読んでください」
その書簡には、司隷校尉の職は解かずにそのまま留任、その上、勃海太守に封じ、さらに爵位として邟郷侯にも封じるとあった。
(――あの偏狭で残虐な董卓に、自分から逃げた者を許せるような鷹揚な精神がある訳がない。どうせ誰かの入れ知恵だろう。それならば、いっそ受け入れておくべきではないか――)
董卓の軍門に降るつもりはさらさらない。だが、袁紹は遣わされた使者から勃海太守の印綬を受け取った。
そして書簡の最後には、前将軍の位も譲り渡すとも書かれてあった。これはかつての董卓の将軍号だ。
「何が前将軍だ。董卓のお下がりの将軍号じゃないか。こんなものは到底、承服できぬな」
このままの言葉を使者が伝える訳にはいかない。恐れ多いと前将軍の号を受け取るのは辞退した、という事で董卓に伝えたのだった。
袁紹にとっては怪我の巧妙だった。中原での袁一族の影響力は大きいとはいえ、逃亡中の時は何の地盤も権力も持てなかったのだ。
太守の印綬を受け取った今、地盤と軍の勢力を持てる身分となったのである。
(董卓め、この私を甘く見たな――。このまま大人しく引き下がる袁紹ではないぞ――)




