第一七〇話 蔡邕
呂布は丁原の軍を率いて雒陽に入京した。丁原の首を携えて董卓に謁見すると、呂布は過度な歓待を受けた。
「待ちかねたぞ、呂奉先。并州での活躍は聞いていたが、想像していた以上の偉丈夫だ。そなたのような息子がいればワシも安泰なのだがな……」
董卓が放つ威圧感におされている自分に気付いた。
腹部は少し肥満ぎみだが、腕や足の筋骨は太く呂布以上だ。目鼻立ちも太く、おまけに眉毛も太い。
養父の丁原にさえ遠慮をしなかった呂布が、董卓の眼前では自然と頭を垂れていた。
「私も、将軍のような偉大な父が欲しかった。そのように思います」
この男に仕える……呂布はそれが最高の至福だと思えた。
「それなら、このワシと親子の契りを交わそうじゃないか」
「身に余る光栄でございます!」
気づいたら呂布は即答していた。董卓が放つ存在感は圧となり、抗う者には苦痛を与え、受け入れた者には安堵すら与える。
他の者はいざ知らず、呂布ですら董卓に呑まれていた。
董卓軍は丁原や何苗らの軍を吸収して、いつの間にか袁紹や袁術らを圧倒していた。
それに加えて皇帝を救ったという大義名分もあるのだ。
間を置かずして董卓は、司空に就任した。
この時期、天候がすぐれなかったのを理由に、司空だった前任者の劉弘は解任された。天候不順を解任の理由とするのは儘あることだが、董卓の陰謀であるのは疑う余地もない。
こうして、董卓は名実ともに政権を手中に収めた。
権勢を誇った宦官や外戚に替わって、地方軍閥の将が政権を握ったのは、漢の歴史の中でも異例である。
かつて栄華を極めた宦官は一人もいなくなった。
――否、後宮で唯一生き残った宦官がいる。
「なぁ、紅晶。宮女って大変なんだね。こうやって毎日化粧しなくちゃならないなんて」
「何を呑気な事言っているの? こんな誤魔化しじゃ、いつまでも続かないわ」
大柄な女と紅晶が、いつものあの池で話をしている。大柄な女はキョロキョロして常に周囲を見回していた。
「確かにね。でも、ほとぼりが冷めるまで隠し通さなきゃ……」
「隠し通せるかしら……。西涼から来た董将軍が、後宮の宮女に狼藉を働いているそうなの。天子をも恐れぬ怪物だと皆が噂しているわ」
化粧で誤魔化したとはいえ、元の身体は男であり、髭が抜け落ちて声が女性化しても、背丈を変える事は出来ない。
大柄な女は蘇脩が変装した姿だ。
「君の側にいて君を見守る。君を護るのが僕の使命なんだ」
「そんな事どうでもいいわ。それに、護られているのはアナタでしょ? 私がアナタを匿っているのよ。それを忘れないで」
「そうだね……」
「いっその事、一緒に死にましょうか」
「急に、何を言ってるんだ? 馬鹿な事を……」
「自分の姿を見て! アナタに馬鹿だなんて言われたくないわ。アナタが私と一緒にいたいというなら側にいてあげる。でも、生きる事にもう未練なんてない。だから、いっその事、一緒に死にましょう。そうすればアナタの望み通りずっと一緒にいられるわよ」
返す言葉もなかった。蘇脩は何も出来ない自分を恥じた。だが、時期を見て紅晶に話さなければならない事がある。それこそが蘇脩が此処に来た理由でもある。
「董将軍が入朝したからといって事態が悪くなるとは限らない。もしかしたら……良いか悪いかは別として、改革が起きるかもしれない。死ぬのはそれからでも遅くない」
蘇脩は微かな期待を紅晶に匂わせたが、紅晶の心には全く響かなかった。絶望が世を覆うこの時代、自ら死を願う者がいるのは当然なのかもしれない。
「もう少しだけ、このままでいさせ欲しい。きっと生きる希望が見つかるから」
蘇脩の虚しい言葉が、紅晶の心を一層虚しくさせた。
「はぁ……」
この虚しさは雒陽を覆う雲のように人々の心にも陰ろうとしていた。それは涼州の無法者が政権を握ったからだ。
ただ、最初の頃はまだ、董卓もその本性を隠して寛大に振る舞おうとしていた。
雒陽で最大の軍事力を手にした董卓は、かつて宦官に迫害された清流派の名士達を呼び寄せ、高位に就け、自分の味方にしようとした。
親族や側近の部下への高位任官はなるべく避けて、高名な士を次々と登用した。私心を無くし国家に尽くす姿勢を、内外に誇示する為であった。
それから間もなく、司空となった董卓が皇帝不在の朝堂に出向いた。
朝堂とは皇帝を前に臣下が集まり政務を執る会議場だ。董卓は警護役の呂布を従えて現れ、並居る群臣の前で恐れ多き提議をした。
「あまねく天地にあって、我ら君臣が政を顕すのが、陛下の統治を為す所以である。とはいえ陛下は若年で公儀に出られない。宗廟を奉る天子としての威光が足りているだろうか? 残念ながら……否、と言わざるをえない。それは何故か?」
あまりに突然で、しかも漢室を揺るがす発言に、会議に望んだ群臣一同は思わず息を呑んだ。
「ワシが陛下を宦官どもからお救いした時の事だ。状況の説明を尋ねても、只々泣くばかりで言葉にならぬ有り様。それに対し、陳留王は事件の経過を冷静に捉え、具にお話して下さった。どちらが天子に相応しいか、考えるまでもない。この際だから、伊尹や霍光の故事に倣って、陳留王を擁立すべきだと私は思うのだが、皆の意見を伺いたい」
皇帝・劉弁は物静かでおとなしい青年だが、恐怖に怯えて人前で泣くほど頼りない男ではない。
劉弁を皇帝の座から引きずり降ろし、まだ幼少の劉協(陳留王)を皇帝に擁立して、董卓の傀儡にしようとする意図があるのは見え見えだ。
董卓を恐れて誰一人物申せない空気の中で、尚書の盧植が正々堂々と言い返した。
「董司空、一言よろしいでしょうか。伊尹は……放蕩な主君の太甲を放逐したが、彼の改心を知ると再び臣下として仕えた。また霍光は、即位二十七日で一千余りの罪過を犯した昌邑王を容認できず廃立した。しかし、陛下は在位して間もなく過失も無い。伊尹と霍光の故事に比較するのは可怪しい。それをもって陛下の廃位を促すなど、絶対に承服出来ませぬ」
「何ぃ!」
董卓は憤怒で立ち上がったが、言い返す言葉がない。
「くっ……。まぁ、一つの意見として承っておこう……。今日は疲れたので、ワシはこれで退出する」
盧植は高名な学者であり、董卓の生半可な知識ではとても太刀打ちできない。
会議中にも関わらず、董卓は露骨に不機嫌な態度で中座し朝堂を去った。
「くそうっ、あのジジイ! 皆の前で大恥かかせやがって!」
すぐに盧植を処刑してやる、と側近に息巻いていた。
「お待ち下さい、司空どの。廬尚書は決して貴殿に恥を掻かす為に、直言したのではありません。まずは落ち着いて再考をお願い致します」
「ぬ……、なんだ? 奴の肩を持つのか?」
侍中に取り立てた蔡邕が、盧植の数々の武勲や経学への功績を考慮し、彼の助命を願い出た。
「彼の肩を持つのではありません。貴殿の為にこそ申すのです」
蔡邕は字を伯喈という。儒教や経学の研究家で、東観(宮中の史料庫)にて多くの史料編纂に携わった。
「ふん、よく言うな。一度はワシからの招聘を断ったくせに」
かつて蔡邕は、宦官との対立で并州の北西にある朔方郡へ左遷されていた。董卓が并州に赴任していた時期であり、朔方にいる蔡邕の名声をよく耳にした。
「そういう貴殿も、私を脅しましたよね?」
「招聘を無視するからだ。どうしてもアンタの才が必要だった」
一度は官界に戻ったこともあった。宦官にもおそれず諫言するので、蔡邕はその生命も狙われた。
再び官界を離れて、十二年も行方を眩ませていたのだ。
捜索により蔡邕の所在を董卓に知られたが、士官を拒否して仮病を装った。
従わないなら一族郎党皆殺しだと董卓が脅したので、蔡邕はようやく招聘に応じた。
「私の才が必要なのであるなら、私の言を無視しない事です」
登用されてからの蔡邕はまた、董卓にも怯まず諫言した。




