第一六三話 詔
張譲はフッと一息吐いて胸を張った。自分が直々に盧植に面会し、詔を直接手渡すのだ。
「久しぶりですなぁ、盧尚書。過去の悶着はお互い水に流して、政の話をしましょう。まずはこの詔を承認して頂きたい」
盧植は無言で詔を受け取るとすぐに目を通した。張譲が勝手に作った詔であるのは一目で分かる。
「張常侍。ザッと目を通したが、大将軍が謀反を起こすなど、到底考えられん話だ。まずは大将軍に直接会って、この詔の内容をじっくり確かめたい」
張譲は配下の宦官に持たせていた袋から、何進の素っ首を取り出した。そして微笑しながら盧植の机の上に置いた。
「ハッ、大将軍? その大将軍とやらは……この謀反者の首の事かな?」
さすがの盧植もギョっとして立ち上がった。
「なっ、何だ!? これは!? まさか……!」
「見てわかりませんか……。逆賊、何進の首に決まってるだろっ! どうだ、その哀れな首に訪ねてみろ!」
盧植は青白い首だけになった何進の顔をよく確認した。その苦渋に満ちた表情は、何進に間違いなかった。
「大将軍っ……! こんな、バカな! 一体なんの罪で首を刎ねたというのだ!?」
盧植は大声を上げて張譲に詰問した。すると張譲の後ろから武器を持った衛兵が現れて、肩を怒らせている盧植を囲んだ。
「謀反の罪で首を刎ねたに決まっているだろうがっ! さぁ、そんなことより、さっさとこの詔を受理せぬなら、貴方も何進の謀反に加担したと見做しますぞ!」
「ふざけるなっ! 逆賊は貴様だっ、張譲! 今度ばかりは、もう許せん!」
盧植は背丈が高く、鐘が響いたような大声の持ち主だった。宮中の隅々まで張譲への罵倒が響き飛んでいった。
宮中に響き渡る盧植の大声は、南宮の隅々にまで行き渡るかのようだった。その声は蘇脩の鼓膜にまで届いた。
「ついに始まってしまったか……」
と蘇脩は大きく呟いた。そして急いで北の後宮へと走っていった。
張譲が何を起こすのかを知っていた蘇脩は、宮中の異様な空気が稲妻のように肌へと伝わり、本能がこれから起こるであろう政変を予感させた。
その時、蘇脩の脳裏を過ぎったのは紅晶の姿だった。そして紅晶を探して後宮内を走り回った。
「紅晶っ、紅晶! 僕は……、僕らは、宦官は皆っ、もう殺される!」
「何を言っているの、士然? 一体どうしたの?」
久方ぶりに出会ったあの日のように、池で鯉の餌をやっていた紅晶は、びっくりして振り返った。
「何進……、大将軍が……、殺されたんだっ。それも、宦官の手によって……」
「どういうことなの? 本当に大将軍が亡くなられたの? 宦官が皆殺しにされるだなんて……」
「大将軍が殺されたと知ったら、我々宦官は司隷校尉によって皆殺しにされる!」
「そんな……、まさかっ」
「間違いないっ。張常侍は怒りに任せて大将軍を殺してしまったんだ。これを知った途端に、司隷校尉の袁紹は仇討ちで宦官を皆殺しにしてしまう。雒陽城外は軍勢で埋め尽くされているから逃げ道なんてない。だから、最後に君に会いに来たんだ。今日だけは一緒にいて欲しい……」
蘇脩は紅晶の手を取って懇願した。あれほど、蘇脩を毛嫌いしていた紅晶も、死が迫っていると聞くと狼狽した。
「そんな……。ま、待って。私にいい考えがっ!」
紅晶は周りに誰もいない事を確かめると、蘇脩の手を引いた。
「あなただけなら助かる方法があるっ。こっちに来て! ほとぼりが冷めるまでは、なんとかなるわっ」
「ど、どうするんだ。君に迷惑をかけるつもりはないんだ……」
「いいから、来てっ!」
紅晶は蘇脩の手を引いたまま、北宮の奥へと走っていった。
北の後宮の静けさに対して、南宮の騒然さは極限まで達していた。狼狽える者、逃げ惑う者、怒声を吐く者、悲鳴をあげる者、様々であるが冷静な者はほとんどいない。
「蘇脩はどこだっ? アイツがいないと……、くそっ。誰か、蘇脩を見た者はいないかっ?」
張譲はこの期に及んで蘇脩を探し始めた。
(こんな時の為に、奴を飼っておいたというのに――っ!)
しかし、自分の性急な行動で、切り札の宦官を手元に置いておくのを忘れてしまったのだ。
「仕方ないっ、先に太后を連れて後宮に避難する! 後から必ず蘇脩を連れてくるのだ!」
(まだ切り札はある! あの男! 奴に上手く取り込めれば――)
張讓は何太后らを筆頭に、数人を引き連れて北宮に続く複道を走っていた。新帝の劉弁と陳留王に奉じられた弟の劉協も一緒だ。
複道とは上下二階構造の、北宮に続く回廊の事だ。南宮と後宮を結ぶ唯一の回廊で、宦官や宮女以外は通れない。
「何事ですかっ? 張常侍! 何が起きているのですか?」
何太后は軽く息切れしながら走り、彼女の手を引く張譲に問い正した。
「大将軍の兵が反旗を翻して、皇宮に攻め寄せているのです! 早くこちらに逃げて下さい!」
「大将軍? まさか、兄が!」
張譲の手を振りほどいて、何太后は立ち止まった。
「兄が謀反などっ、有り得ませんっ! 私が確かめるから、先に陛下(劉弁)と王(劉協)を連れて行きなさいっ!」
そう言うと、何太后は一人で北宮とは反対の方向に走って行った。
「太后っ――! なんて事だ……。仕方ない、今は陛下のご安全が優先だっ。無礼は承知の上だが、今は緊急事態、陛下をお抱えしろっ!」
張譲は幼い劉協を部下の宦官に抱き抱えさせ、皇帝を連れて北宮へと避難しようとした。
(兄に、兄に一体、何が――)
何太后は複道から南宮に戻ろうとしていた。すると、後から来た宦官の段珪が呼び止め、太后の手を掴んだ。
「太后っ、どこへ行くのですかっ? 私達と一緒に北宮へ行きましょう!」
「手を離しなさい! 私には確かめなければならない事があるのです!」
「いや、しかし!」
二人が押し問答をしていると、太い声が回廊に響き渡った。
「段珪ぃ! 太后を離せええい!」
なんと、血塗れになった盧植が戈を手に、南宮の入り口から現れた。
「ぬおお!!」
宦官の衛兵に囲まれながらも、一人奮戦してここまでやって来たのだ。
「ろ、盧植っ。まさか生きているとは! 複道が男子禁制なのを知らんのか!」
「離しなさいっ!」
この瞬間、何太后は段珪の手を振りほどき、複道の窓から下に飛び降りてしまった。
「太后っ――!」
盧植も太后を追って複道の下に飛び降りた。下は草地だが高さは結構ある。打ち所が悪ければ大事になる。落ちた太后の安否が気がかりだった。
(――くっ、知ったことかっ。太后もどうせ大将軍と同じ運命を辿るのだ――)
段珪は太后を諦めて北宮に逃げ込んだ。そして、複道の扉を厳重に閉めて人の行き交いが出来ぬようにした。
そして盧植は、複道の階下で気絶している何太后に急いで近寄った。
「太后っ、大丈夫ですかっ? うっ、意識がない……」
何太后はぐったりとして、眠ったように倒れている。
「失礼致す……、ご無礼をお許しくだされ……」
袖に隠れていた太后の右手首を、盧植は剥き出しにした。太后の素肌を見るのも憚れる時代、魯粛は躊躇しながらも命の別状を探った。
脈は正常であった。打撲等はあるようだが、命に別状はないらしい。
(大事でなくて良かった――)
盧植は一旦安堵したが、宮廷内の混乱は未だ収束する気配はない。肝心の皇帝の行方は以前わからぬままだ。




