第一五九話 懇願
袁紹は何太后を脅す為に何進の詔と偽り、丁原を使って孟津、平陰、河津と黄河に添って港町を焼き払った。
深夜になると孟津を始めとする各港町から、メラメラと燃え上がる炎が黄河の近辺を照らし、天を衝くような巨大な灯火は雒陽にまで届いていた。
雒陽の人々は空が赤く染まっているのに気づき、城壁の側に集まった。城壁の上では兵士たちが騒いでいる。
そして城外に住む者たちはそれぞれが高い場所、屋根の上、あるいは木に登ってまで黄河の向こうを眺めた。
「火を多く使う街だから、仕方ないわよね……」
何太后は高い望楼に登って孟津の炎を見ていた。気丈に振る舞うがその実、彼女は恐れ慄いている。その場から動けないでいる。
聞けば、昼間から賊が暴れまわっているのだという。
「火を着けたのは黒山伯という賊で、打倒宦官と叫びながら暴れまわっているそうです。義賊を名乗っている以上、陛下に危害を加えようという意思はないと思われますが……」
背後からそう告げたのは若い宦官だった。その宦官も足が震えている。
「そう……」
太后はか細い声で生返事をした。賊と名乗る者の真犯人は丁原であるが、何太后は知る由もない。
翌朝の朝議は大荒れだった。近隣の街を賊が暴れまわったというのだから、騒然となるのも当然だ。
何進ですら寝耳に水だった。前日にその報せを耳にしたのは、火照る対岸の港町が夕暮れに霞む頃だったのだ。
朝議は隣街の惨状を報告するに留まり、具体的な方策については意見がまとまらないままで有耶無耶となった。
朝議を終えるとすぐ、袁紹は火が出そうなほど血相を変えて、あからさまに何進を捲し立てた。
「孟津が火の海になったのも、元を辿れば宦官が朝廷を食い物にし、我が物顔で蔓延っているせいですっ、大将軍!」
「わかっておる……! そう熱り立つでない!!」
袁紹が血相を変えたのは演技であったが、何進の不甲斐なさに対する不満もあってか、鬼気迫るものがあった。
だが、それでも何進の決断は鈍いままだった。宦官らは恐れ慄き、すでに敵ではない。彼の妹も弟も、宦官を許せと懇願しているではないか。
そんな時に、弟の何苗が久々に何進のもとを訪ねてきた。
車騎将軍の何苗も、太后と共に宦官を擁護する立場にあった。宦官から多額の賄賂を受け取っていたからだ。兄の何進とは長らく疎遠だったが、何進の前に平伏し咽び泣きながら懇願した。
「兄さんっ、俺達が権力を得たのは、宦官のおかげじゃないか。そんなに宦官を苛める必要ないだろう? また仲良く一緒にやっていこうよ……」
足元で泣き縋る弟をみて、何進はまた迷いが出始めた。そもそも、宦官と険悪な関係だったのは、屠った蹇碩とその取り巻きだけで、もう心配の種は無いとさえ思える。
「ここまで宦官どもを脅してやったんだ。そろそろ許してやってよ……」
何苗の泣き落としに絆された何進は、袁紹に宦官との和解を勧めた。だが袁紹は再び烈火のごとく反発した。
「大将軍っ、ここまで準備が整い、形勢は我らに有利となっているのに何故ですか。ここで止めてしまえば全て水の泡だ。狡猾な宦官どもを相手にしているのですぞ! 躊躇すれば我々の身が危うくなる。大将軍っ、決断してください!」
ほとんど脅迫に近い袁紹の諫言に、何進は戸惑った。一族をあげて協力してくれた袁紹を今さら裏切れない。
「わ、わかった。お前に任せるから……」
八月、何進は袁紹を司隷校尉に任命した。さらに従事中郎の王允を河南尹に任命させた。
張譲によって左遷されていた王允だが、袁紹の召聘で中央官界に戻った。王允もいわずもがな、宦官一掃に加担する急進派である。
袁紹と王允は、十常侍の動向を具に窺いつつ、四方から呼び寄せた将軍たちを、雒陽城付近の西園にある平楽観に移動させ、駐屯する事を要請した。
平楽観に続々と諸将が集い始めると、何太后も恐れ慄いて兄の何進に相談した。
「大将軍っ、いえ、兄上! これは一体どういう事でございますか? 平楽観に兵を集めて何をなさるというのですか?」
「太后、仕方ないのです。世を糺す為には、いや、貴女の目を覚まさせる為には、こうする以外に選択肢はなかった。宦官たちを宮中から一掃すれば、直ちに諸将を京師から遠ざけます。どうか聞き入れて下さい。今、西涼で最強の猛者と言われている董卓の軍が近づきつつあります。彼らが来れば宦官たちは一人残らず殺戮されてしまうに違いありません」
何太后は何苗と同じように何進の足元に崩れ落ちるように縋り、泣きながら懇願して言った。
「兄上、もう私は年老いて宦官たちがいなくては日々の暮らしも儘ならないのです。朝廷の政治を執るのに、宦官の助けなくしては有り得ません。どうか、彼らを許してやってもらえませんか? どうか、どうかお願いいたします。ねぇ、兄上、どうして私達はこんな事になってしまったのでしょうか。せっかく栄華を極めても、我ら兄妹が憎しみ合う事しか出来ないなんて……う、う、う……」
何進は泣き崩れる妹をみて、居た堪れなくなった。
「互いに年を取ったな……」
と一言だけ、か細く漏らした。
少し白髪の混じった妹の頭をさすりながら彼女の顔を見ると、シワが増えたとはいえ、若かりし頃の美貌を思い出させる気品があった。
「オレだって、お前を苦しめるような真似はしたくない。いいか、宦官たちを悪いようにはしないから、黙ってオレの言う事に従ってくれ。頼むよ……」
翌日、何太后は兄の進言に従い、中常侍から小黄門に至るまで尽く罷免して郷里に帰らせるよう申告した。
そして、何進と通じていた郭勝とその縁のある宦官だけを残して、政に携わる事のないように宮中での雑務をさせた。
何進も何太后の想いに答えて、雒陽の目と鼻の先である澠池県に到着した董卓に引き返すように指示した。
「何が、引き返せだっ! あいつら舐めとるのか!」
怒りに震える董卓は勅命を無視してさらに東の河南城まで歩を進めた。雒陽まであと一歩という所だ。
同じく怒れる何進は董卓の説得の為に、諫議大夫の种劭にその任を与えて現地に向かわせた。
种劭は董卓の労をねぎらって丁寧に懇願したが、董卓は京師で何か起こったのだと推し、武器を持って种劭を脅して押し通る構えを見せた。
「これは勅命だぞ! 勅命に逆らうのか!」
种劭は少しも怯むこと無く、逆に董卓を一喝した。皇帝を諌めるご意見番という役である諫議大夫として、度胸も肝も据わっている男だ。
今回に関しては、何進の理不尽な命令だと言わざるを得ない。董卓は种劭の叱責を受け怒るかと思いきや、意外にもすんなりと引き下がった。
「親分! なしてワシらが、大人しく引かにゃイカンと?」
「こいつんゆう通りじゃ。今さら引き返せて、どげんゆう事じゃ!?」
不平不満を漏らしたのは李傕と郭汜だ。血気盛んな若き武将たちだ。しかし、董卓は彼らの不満をあっさりと一蹴した。
「お前んらは黙っとけ。オイに考えがあるとばい」
董卓は雅言(標準語)ではなく、涼州の方言で部下と喋っている。董卓の生まれは父親が赴任していた潁川郡だったので、雅言と方言を使い分ける事が出来た。
涼州の方言で命令を出す董卓には、部下を黙らせるに足る不気味な凄みがある。
董卓軍は种劭の言うがままに、河南城の手前の夕陽亭まで西へ後退した。




