第一五八話 并州軍
丁原は并州の雲中郡出身で、字を県陽という。并州刺史だが、武骨一辺倒でのし上がってきた男だ。
并州は最北に位置し、雲中郡はさらに最北にある。遊牧騎馬民の鮮卑族との国境を舞台に、度々衝突が起こる地域だ。
西北の涼州軍を牛耳り西の羌族を討伐、懐柔した董卓。最北の并州軍を率いる丁原。そして東北の烏桓族と対峙する幽州の公孫瓚。
北方異民族との戦いの中で国境を守る将軍たちは、精強な騎馬軍を率いる最前線の守護神なのだ。
董卓は羌族を封じ込め、丁原は鮮卑族の南下を食い止めた。公孫瓚は目下、烏桓族と対峙している。
このうちの二人を雒陽に招聘した事は、何進や袁紹にとって何より心強かったであろう。
そして袁紹は、大将軍の命令だとして度を超えた密命を丁原に与えたのだった――。
その密命とは、黒山伯という義賊に扮して、雒陽の隣にある孟津という街を火の海にする事だった。
打倒宦官という名目掲げて暴れまわり、宦官を擁護する一派に精神的な損害を与えようというのだ。
孟津は、黄河を挟んだ雒陽の北東側に位置し、黄河を渡って対岸にある昔ながらの港町だ。かつては陶磁器や煉瓦を製造する為の巨大な焼き窯を有する工業地帯でもあったが、今は寂れてしまっている。
「とっつぁん、この町ば……本気で焼ぎ払うのが?」
「おう、奉先! 大将軍のお墨付ぎだはんでな、どんどん、やれい! すかも、こぃが終わったっきゃ執金吾(警備長官)に就任させでぐれるっつうんだはんでよっ」
「『士官するだば執金吾、かがを娶らば陰麗華』――が。とっつあんがむったど(いつも)言っちゅうヤツか」
執金吾とは、宮殿警護長官である。前漢において最も華やかとされた官職だった。派手な鎧を纏い、精鋭兵を引き連れ、街中を闊歩する姿は羨望の的だったという。
そして陰麗華とは、後漢創始の光武帝が若かりし頃に憧れたという絶世の美女である。彼女は後に光武帝の皇后となる。
――士官するなら執金吾、妻を娶らば陰麗華――
この語句は、夢を実現させた成功者の典型句であった。武に生きる将にとって執金吾というのは、戦場に出る機会のほとんどない名誉職と言えるが、それでも丁原にとっては憧れの官職なのだ。
「そだっ、存分さ暴れろっ、おめら。『義賊さ成り済ますて、町さ火放で』っつうのが、お上がらの密勅だ。わんどゃ今だげ黒山伯名乗っぞ。『打倒、趙忠! 打倒、張譲!』づって叫び回るだ!」
丁原は齢五十を超える老将だが、未だ自ら先陣を斬る豪傑。多くの猛将を従えるが、一際目立つ武者が常に彼の背後にいる。
その武者は天を突くような巨躯で、彫りが深く目の色素は薄緑。大きな鉤鼻で、髭は薄く顎がクッキリと二つに割れている。首には朱色の布を巻き付けてあり、風になびいて呂布の巨体を引き立たせる。
姓は呂。名は布、字を奉先。脂の乗った三十路過ぎ、戦歴も豊富な武芸百般の達人である。
最北端の并州五原郡出身で、丁原の主簿として常に側に置かれていた。主簿とは財務担当官という位置付けだが、実質的には腹心の武官である。
呂布は主簿として丁原の側で、古びた街を自慢の騎馬で駆け抜けていた。しかし、丁原は逃げ惑う町民ですら斬り殺していく。
「くっ……」
久しぶりの戦場に心躍らせた呂布だったが、そこは戦場ではなく――ただの一方的な殺戮の場だった。街の民家や家屋に火を放ち、逃げ惑う民衆を騎馬達が容赦なく駆り立てた。
「逃げっじゃねぇ!」
丁原は逃げ惑う女性を、矛で突き殺そうとしていた。
「おいっ!とっつぁん、わんつか(ちょっと)待でよ!」
間髪だった。呂布は自分の槍で、丁原の矛を寸出の所で止めたのだ。
「なんだ!? おめっ、ワスのやる事さ文句でもあんのが?」
「女まで殺るこたぁねぇだろうっ!」
「大将軍の勅命だぞっ。甘ぢょろぇ事言うでねぇ!」
二人は手綱を引くと、馬の嘶きと共に動きを止めた。面と向かい、暫く睨み合って火花を散らした。
「甘ぢょろぇ!? どういう意味でい!」
「おお!? おめぁ、ワスさ歯向がうのがっ? 誰さのおかげで育ででもらったど思っとるんじゃあ!」
「くっ……」
呂布は幼少の頃の記憶が薄い。最北の国境から目と鼻の先にある五原郡で育った。家族は騎馬民族との戦乱に巻き込まれて行方不明となった。
子供ながらに体格の良かった呂布は、丁原に拾われて将となるべく育てられた。馬の操り方、武器の扱い方を叩き込まれ、わずか十歳にて初陣を飾った。
十歳そこそこで大人並みの体格となり、十五歳で身の丈八尺四寸(約百九十三センチ)に成長した。
膂力は人並み外れて騎射は百発百中の達人の域、馬を駆れば向かうところ敵無く、呂布の武威は噂となって雒陽にまで鳴り響いていた。
「わっきゃ強ぇ奴ど戦いだげだ。女子供みでぇな非力なモンまで殺っちまわねぇど、執金吾になれねのが?」
「おお!? どごまでもワスさ歯向がうづもりが!?」
呂布と丁原は、馬の鼻先を突き合わせて睨み合った。
二人の不穏な空気を見た丁原の兵たちが、ざわつきながら周りに集まってきた。
「どうすたんだ?」
「オヤッサン! 何があったんだが!?」
丁原と共に戦ってきた歴戦の兵たちだ。だが、誰も呂布と丁原の間に割って入ろうとは思わない。呂布が一度暴れ始めたら誰も止めることはできないからだ。
沈黙を破って呂布が言葉を放った。
「こった事さ何の意味があんだ? ただ、それが知りでえんだ」
「執金吾になる為だば何だってやるぞっ。ワスらが黒山伯を討ったつう手柄を立でねばなんねぇ。だはんで、賊の首数が必要だ。女だろうとガキだろうと容赦しねぇ! わがったが?」
呂布は地面に唾を吐いて槍を背に担いだ。
「ケッ、やっでらんねぇ……」
「なんだどぉ! 待でぃ! 奉先!!」
丁原の罵声をよそに、呂布は馬の手綱を引いて横腹をドンと蹴り、颯爽と走り去った。
「奉先め……! 育での恩忘れやがって! あの大馬鹿もんがっ!」
皆の前で丁原は、そこにいない呂布を詰った。だが、その言葉は皆の心には全く届いていなかった。
呂布には武人としての誇りがある。歯ごたえのある将や自分に歯向かう敵を、自慢の腕力で捩じ伏せるのを本分としている。女、子供を殺めるのは、彼の美学に反する行為だった。
炎で赤く染まった街を背に、馬に鞭打って駆け抜けた。火の粉が舞う夜の風が、抑えきれないほど呂布を興奮させた。
丁原に詰られたのが発端ではない。赤い炎や血を見ると、身体の滾りを抑えられない自分がいるのだ。




