第一五六話 弱味
雒陽に渦巻く陰謀からあぶれた蹇碩は、仲間の宦官に裏切られて死んだ。何進は無邪気に喜ぶが、まだ安心はしていない。
「蹇碩め、やっと死んだか。愚かな奴め。それにしても、十常侍の奴らには借りを作ってしまったな。まぁ、いい。次は董一族の始末だ」
「その前に、蹇碩の軍を掌握しなければなりません。政権を確実なものとする為に最優先すべきです」
袁紹の進言に従った何進はまず、蹇碩が統括していた軍をすべて自軍の統制下に置いた。
八校尉のうち、重要な地位を占める上軍校尉の蹇碩、下軍校尉の鮑鴻の二人が処刑された事で、西園軍は有名無実と化した。
曹操が故郷の沛国より帰還したのはその頃だった。頭痛の種だった蹇碩はすでに処刑されていた。
裏切りで蹇碩を屠ったという事だが、張譲ならお手の物であろう。しかし、政敵の何進と組むとは――
だが、次に張譲の政敵となるのは、何進と袁紹だ。特に袁紹が宦官を一掃しようとしているのは、宮中の内外に知れ渡っている。
曹操は一歩距離を置いて、彼らの一挙手一投足を俯瞰した。曹操にとって袁紹は、信頼しきれない男だ。
光熹元年、五月。何進は、三公(三人の最高大臣)と結託して董太后を封国へ戻した。
「董太后は宦官を使って、州郡からの租税や財物を私物化しています。古くから蕃后(王侯の后)は京師に留まるべきではない、とされているではありませんか。封国である河間(河北献県)に帰らせましょう」
封国とは、皇族に与えられる直轄地であるが、実質的な行政権はない。皇族が直轄地で行政権を行使すれば、謀反や反乱の可能性があるからだ。
つまり、封国に戻されるのは、体の良い左遷と同じである。何太后はこれに同意して、董太后を宮中より追い出した。
五月の辛巳(六日)になると、何進はさらなる強硬手段に出た。兵を率いて驃騎将軍府を包囲し、強引に董重を逮捕したのだ。即刻、獄に繋いだうえで罷免した。
表向きには董重の死は自殺とされたが、獄での拷問に耐え切れず死んだのだろう。よくある事だ。
それからちょうど一ヶ月後の六月の辛亥(七日)、董太后が死んだ。恐れのあまり自殺したとか、毒殺されたのだとか、ちょうどこの時期にあった地震の影響だとか、色んな噂が流れたが自然死でない事は確かであろう。
董一族を官界から排除する何進の攻勢劇は、速やかに閉幕した。だが、それで何氏一族は、宮中の内でも外でも民心を失った。
そういう風評を流したのは十常侍だ。彼らも一時は蹇碩と董氏の排斥のため、何進と共闘した。が、所詮は外戚と宦官という、水と油の関係でしかない。また新たなる政争の火種が燻りはじめていた。
袁紹は、党錮の禁以来、親の敵のように宦官を憎んだ。宦官たちの絶滅に躍起になり、何進の説得に全力で取り組んだ。
「二十年前……、かつて大将軍だった竇侯(竇武)と、太尉の陳侯(陳蕃)が宦官を一掃しようとして失敗しました。何故なら、周到に練られたハズの計画が漏れたからです。さらには自分たちの兵を持たないのに、宦官の息がかかった護衛の兵を使って政変を目論んだのが大きな間違いでした。しかし大将軍は今、強大な軍を従えています。宮中に巣食う宦官どもを滅ぼして、天下の忠臣として後世に名を残す好機ですぞ!」
「そう焦るな。私の妹、いや、皇太后がそれを許さんのだ。彼女は十常侍に借りが出来たと思い込んでいる。宦官たちの力がなかったら今の権力を手にすることはできなかった、とまで言っている。今や陛下に代わって執政している太后には、実の兄である私でさえ逆らえない」
「では、このまま宦官たちが蔓延るのを黙って見ていろ、というのですか!?」
「いや、皇太后には宦官ども殺さずに役職を剥奪して、宦官以外の行政官にその役割を任せるべきだ、と提案しよう」
「しかし……! そんな甘い考えでは!」
「なんだと? これ以上、何か言いたい事があるのか?」
「いえ……」
袁紹は納得など出来なかったが、何進を差し置いてまで、自分の意見を実行に移す立場にはない。
何進は翌日、密かに何太后へ自分の考えを打ち明けた。だが、何太后は頑として首を縦に振らない。
「宦官たちがいるからこそ、宮中の雑務が滞りなく行われるのです。古来より続く男子禁制の掟を、私の代で破ると言うのですか。まだ先帝が崩御されて間もないのに、男どもと共に政事を執るのは先帝に対する背任行為ですわ!」
と言って何太后は烈火の如く猛反対した。大将軍の何進であろうと、彼女の勢いに逆らえない。かつては皇后で、今や皇帝の母、太后なのだ。
仕方なく何進は、法を犯していると思われる下っ端の宦官たちを選んだ。その者たちを処刑することで、袁紹の溜飲を下げようとした。
しかし袁紹が、子供騙しの様な手土産で納得する訳がない。
「大将軍っ、何故です! 太后は陛下に代わって執政しているとはいえ、貴方の実の妹ではありませんか。何か弱みでも握られてるんですか!?」
袁紹の鬼気迫る表情と迫力の前に、何進はたじろいで半歩後退りしてしまった。
立場では上司の何進だが、政界での人脈と名声では圧倒的に袁紹の方が上なのだ。
何進は意を決して、自分の本心を袁紹に打ち明けた。
「そうだ。弱みを握られている……」
「なっ、本当だったんですか? 一体、何の弱みを握られてるんですか」
「話せば長くなる。妹の曄は、美人の誉高く近所でも評判だった。しかも才気煥発で大人びていた。そこで父は、妹を歌妓にすれば一山稼げると思ったらしい。父の読み通り、妹の評判はさらに高くなり、南陽でも名うての歌妓となった」
名門出身の袁紹には娘を歌妓にするなど想像もつかなかったが、身分の低い女性が、立身出世する為の近道として、歌妓になる…という選択肢もあったのだ。
「そんなある日、私は弟の叔達と共に、久しぶりに実家に帰っていた曄を手籠めにしてしまった……」
悪鬼に背を突かれる様な思いで、何進は顔を手で覆い俯いた。弟の叔達とは、継母の連れ子であった義弟の何苗の事である。何進とともに出世して大将軍の次位である車騎将軍にまで上り詰めた。
一気に温度が下がるように、袁紹の顔は真っ青になった。
「なんと……」
おぞましい、と袁紹は心の中で続けたが言葉には発さなかった。
「今にして思えばなんと愚かだったか。若かったとしか言いようがない。その後、宦官の郭勝に賄賂を積んで、曄を後宮に送った。彼女は私たち兄弟を責めることもなく、自分の運命を静かに受け入れた。我ら何一族がこうして外戚になれたのも曄のおかげなのだ」
何進の何皇后に対する贖罪の意識が、彼女に逆らえない境遇を作ってしまった事を、親しい袁紹に告白したかったのだろう。
しかし、何進の軟弱さと軽口に、袁紹は呆れ返った。だが、それだけ袁紹を信頼または恐れている証拠でもある。
何進を説得できないと諦めて、袁紹も別の方策を示した。
「それでは、これならどうでしょう。中原の四方にいる将軍たちを呼び寄せ、大将軍の権威を見せ付けるのです。京師に豪傑たちを集結させて宮城に詰め寄れば、太后も宦官どもも恐れをなし、貴方に歯向かう愚かさを知るに違いありません」
これは袁紹の謀臣、逢紀の策だ。宦官を一掃できる兵力があるのに何進が行動に移さないのは、単純に決心が足りないからである。
だから、各地で賊の鎮圧に当っている猛将たちを呼び寄せれば、何進の決心も固まるだろう、というのが逢紀の策だ。
「わかった。君の言う通りにしよう」
何進は袁紹が提案した方針に同意した。すんなり受け入れられると思っていなかった袁紹は、何進の前で跪いて大袈裟にその雄姿を讃えた。




