第一五五話 紅晶
蘇脩は今、朱雀門の前に立っている。
その朱雀門は、文字通り朱雀の文様が彫り込まれた綺羅びやかで巨大な門だ。朱雀は火を象徴する神獣で、南方を守るとされる。
豪華な門を潜ると、さらにこの世のものと思えぬ景色が眼前に広がっていた。
八つの高層楼閣が聳え立ち、色鮮やかな宮殿と木々の緑が美しく調和する。路地端には牡丹の花が咲き誇り、華胥(理想郷)かと見紛う風靡を醸し出していた。
地上での美相を羨むように、空にはドス黒い雲が不敵に立ち込めている。
朱雀門を抜けて真っ先に目に入るのが徳陽殿だ。雒陽城外の平楽観にある楼閣よりも、さらに壮麗な高層建築である。
徳陽殿の一階は一万人もの宮女が居住し、中央にある階段は高さだけで二丈(約五メートル)の規模だ。高層建築群は四十里(約一七キロ)ほどの彼方からも眺望できた。
初めて見る者にとっては、人が作りし建造物とは思えぬ巨大な望楼に目が眩むであろう。
雒陽の宮城(政治の中心となる城)は南宮と北宮に分かれる。政治を取り仕切る南宮。皇帝と皇后や側室……そして、無数の宮女と宦官が住む男子禁制の北宮。
南宮から北宮に繋がる唯一の通路は、北側にある玄武門からの複道(上下二段の廊下)だ。
複道に沿って一里(約四百メートル)ほど北に向うと、北宮の入り口となる朱雀門にたどり着く。
蘇脩の目的はもちろん、北宮にある建物を眺める為ではない。とある一人の女性を探し求めていた。
宦官として後宮に入った蘇脩は、最初に宦官としての仕事を覚えねばならない。若き宦官は宮中内の雑務を忙しく熟す義務がある。蘇脩は北宮で宮女を仕切る役を嘆願した。
「貴様も変わった奴だな。半年も苦労して男を辞めたというのに、まだ女の尻を追いかけたいのか?」
と張譲から嘲笑混じりに揶揄された。蘇脩は無言で頭を下げた。
「まぁ、私が与える仕事さえこなせば、別にかまわんが……。この人事は、どっかの裏切り者誅殺に貢献した褒美だと思ってくれ」
「ありがとうございます。このような過分なご褒美、謹んでお受けいたします」
蘇脩は張譲の特別の手引により、高待遇の宦官として迎え入れられた。何故、新人の蘇脩が高待遇なのか、誰も尋ねる事はない。
暫しの休息を与えられた蘇脩は、北宮の中を歩きまわった。初日は宮殿内を具に視察して覚えるという名目で自由が許された。
聳える楼閣の間を抜け、行き交う艶めかしい宮女と、よそよそしく歩く宦官らを通り過ぎ、気が付くと芳林園という庭園に辿り着いた。
無数の鮮やかな花が咲き誇り、小鳥の囀りが響く庭園を進むと、鏡のように風景を映し出す小規模な人工の湖畔がある。
そこで餌の入った袋を手にした女性が、群がる錦鯉に向かって一つづつ餌を優しく放っているのを見つけた。蘇脩は餌をやる彼女の後ろ姿を、黙って眺め続けている。
彼女の髪は、堕馬髻という、髪を束ねた髷を少し傾けた結いかたをしている。
名前の由来は、落馬して髪が乱れたような、という意味合いだ。当時の女性の間では一般的な髪型であった。
髪型のせいで横顔すら見えないが、蘇脩は彼女こそが自分の探している女性だと確信した。
餌をやり終えた彼女は、自分の背後にある人影に気付き、スッと後ろに振り返った。女は驚いて、手にしていた餌袋がするりと抜け落ちた。
落ちた袋から白い餌が、石畳と水面に氷混じりの雪の如く散らばった。
「嘘……。あなた……まさか、士然?」
二人の間に、束の間の静寂が訪れた。五歩ほどしか離れていない距離で、向き合って見つめ合っている。つむじ風が花びらを巻き上げ、二人の空間にやさしく漂った。
「紅晶……。覚えていてくれたんだね……」
蘇脩は甲高い声で、女の字を呼んだ。女は驚いた顔をして少し後ずさりした。
「私の字を知ってる……。やっぱり士然なのね。どうやって此処へ? まさかアナタ……」
「私の今の名は蘇脩だ。字も変えたよ。士偃だ。誰も私の字で呼ぶ者など、いやしないが」
「名前なんてどうでもいいわ。そんな事より、なぜアナタがここにいるの? ここがどこか分かっているの?」
「君が何を言いたのかわかるよ。そう、ここは女か……宦官でなければ、決して踏み入れる事が出来ない聖地。陛下以外はね……。つまり、私は宦官になったのさ。君に会うために……」
宦官の服装は黒く、被っている宦官帽も黒い。蘇脩には髭が無く、宦官にしか見えようがない。蘇脩の言葉を聞いた紅晶は、高い所から布が落ちるように腰が崩れた。
「なんて事を! 身体を傷つけたのね! なんでそんな事を……」
紅晶は、まるで幽霊にでも出会ったかのような表情で狼狽えた。目にはうっすら涙が滲んでいた。
「君が気にする必要はないんだ。ただ、俺は君に会う必要があったんだ……」
「そんな……必要って、なんなのよ。そんな事の為に……」
叫んではいないが、感情が高ぶり紅晶の声は上ずっていた。その声には侮蔑の色が滲んでいる。
蘇脩……、いや蘇双は俯いて答えたが、落ち込んでいる様子ではなかった。
「馬鹿げていると思うだろうね。宦官になってまで君に会いに来るなんて……」
「私に会うことが目的だなんて、馬鹿げているわ!」
なかば怒りの混じった女の口調は、か細い声が力強かった。
「俺の勝手で来ただけだよ……。気にしないでくれ。君に迷惑をかけるつもりは……」
たじろぐように下を見て話す蘇脩。男を捨ててまで後宮に来る者を、快く迎え入れる女などいないのは当然だ。
「私は気にするわ。天子の為、采女として仕えさせてもらったけど、今はただの侍女。そして、あなたは宦官になって此処へ来た。何を求めてこんな事を?」
采女とは後宮の妃嬪(側室)における下位女官だ。皇后以外の妃嬪は貴人、美人、宮人、采女の順に位がある。
千人を越える妃嬪を持つ皇帝と、生涯一度も交わる事のない女の方が多い。采女ともなるとその数は数百人だ。紅晶は三十路を越えても、皇帝の子を孕む機会は巡ってこなかった。
それで配膳や雑務をする侍女になり、改めて後宮に仕えていたのだった。
「ただ、君に会いたくて勝手に此処まで来た。それが君の重荷になったのなら謝るよ。でも……俺の気持ちは、残りの人生を、例え君をこの手に抱けずとも、側にいて過ごしたい。君の近くにいれるだけで、それだけでいいんだ」
「何を馬鹿な事を言っているの。はっきり言って、迷惑だわ……」
迷惑――。そんな言葉が彼女の口から返ってくるのは、少なからず予想していた。とはいえ、紅晶の一言は、蘇脩の心を深く抉った。
そして再び二人の間に物悲しい静寂が舞った。紅晶は呆れたように目を瞑って嘆息した。
もどかしい空隙を裂くように、背後から宦官らの黒い影が現れた。十数人の宦官が、蘇脩に近づいて来た。
すぐに蘇脩と紅晶は互いに離れ、素知らぬ顔で目を逸らした。二人が話していたのは誰にも見られていない筈だ。
そして背後から静かに蘇脩へと語りかけた。
「おい、脩。こんな所で何やっている? 張中常が貴様を探しておられたぞ。向こうにおられる。早くいけ」
蘇脩は小刻みに頭をうなずかせると、そのまま宦官の黒い群れに溶け込んでいった。その群れの中には、渦巻く陰謀の黒い淵が見えるようだった。




