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三国志創生伝 ~砂塵の彼方に~  作者: 菊屋新之助
第十四章  皇帝崩御
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第一五二話  日蝕

 曹操は故郷に着くとすぐに従弟たちを招集した。


 夏侯惇(かこうとん)と夏侯淵(かこうえん)は、曹操から徴発の件を聞くと、この時を待っていたとばかりに躍り上がって喜び、すぐさま地元の若い者を集めて軍装をさせた。


 曹一族の若き有望株、曹洪(そうこう)や曹仁(そうじん)も頼りになる弟たちであった。


 しかし、二人とも遠方で官職に就いており、すぐに曹操の元に馳せ参じることは出来なかった。


 曹操は弟たちの帰還を待つ……という名目で、故郷に居座って時間を稼ぎ、蹇碩(けんせき)と何進の内紛が沈下するのを期待した。が、時代の流れがそうはさせなかった。


 雒陽(らくよう)に戻れと、袁紹から何度も伝達が来るようになった。理由は、皇帝の容態が急変した、との事だ。


 他にも理由がある。


 曹操が故郷に戻ってすぐの頃、下軍校尉の鮑鴻(ほうこう)は、汝南(じょなん)郡葛陂(かっぱ)県の黄巾賊を討伐する為、軍勢を率いて現地に向かった。


 かつて屯騎(とんき)校尉として、董卓の足下で腕を鳴らした鮑鴻は、西園八校尉の設立後、真っ先に賊の討伐を任せられた。


 しかし大問題が発覚する。あろうことか、鮑鴻は軍の徴発を利用して、不(・)正(・)に一千万銭以上も得ていたのだ。


 予州刺史の黄琬(こうえん)が、鮑鴻の横領の証拠を掴んでいた。以前から鮑鴻には、黒い噂が付き纏っていたのだ。奏上が受理されると、鮑鴻はすぐに捕縛され、後に雒陽で獄死した。


 黄琬の字(あざな)は公琰(こうえん)といい、名族の家柄である。


 かつての清流派の代表格、陳蕃(ちんはん)の盟友で、党錮の禁により二十年も身を隠していた。予州では黄巾賊の残党を鎮圧した功績がある。


 この黄琬の活躍は、何進に大きな不安を与えた。なぜなら、蹇碩がそれを利用しない手はないからだ。


 上軍校尉の蹇碩には強大な権力が与えられており、鮑鴻が率いていた下軍を吸収されると、何進と袁紹はさらに劣勢になる。その前に、袁紹を呼び戻したいと何進は考えた。


 袁紹も曹操と同じように、徴兵で徐州や兗州に出向いていたのだが、何進の要請に応じて一足先に雒陽へ帰還した。


 そもそも、袁紹自身も時間稼ぎで徴兵に駆り出されていた。何のための時間稼ぎであったかというと、何進の涼州出征を回避する為だ。


 涼州出征は雒陽から何進を遠ざける蹇碩の策略だが、皇帝の命である以上、何進といえども逆らえない。袁紹の徴発を待ち、満を持して出征するという理由である。


 皇帝の命とはいえ、蹇碩の陰謀なのは明白。何進にとってこの時期に雒陽を離れたら命取りになる。


 そんな時だった。――漢帝国の支柱となる皇帝が、病(・)で倒れたのだ。


 最初は何進にすら、伏せられていた。が、すぐ内外に情報が漏れ、皇帝の容体悪化が知れ渡った。


 それ故、何進は急いで袁紹を呼び戻し、政敵の蹇碩に備えようとしたのだ。


 三月に袁紹は雒陽に戻り、急いで曹操を呼び戻す為の密使を何度も送ったが、曹操は無視した。


 その間にも皇帝の容態は急速に悪化し、起き上がるのも困難となっていた。


「四月の朔(ついたち)の昼間、太陽が……隠れると思われます」


 そう予言した劉洪(りゅうこう)は皇族の家系で天文学者であった。山陽太守を務めながらも、天変地異の予兆を奏上した。


 後漢では、四分暦(しぶんれき)という太陰太陽の暦法が用いられている。劉洪は月行の測位をより正確にした乾象暦(けんしょうれき)という暦(こよみ)を編纂し、日蝕の予測ができた。


 その劉洪が日蝕を正確に予言したのだ。だが、当時の人々には日蝕は怪異でしかなかった。


 日が蝕われる日蝕は不吉とされている。災害は天界からの咎めによるものだとし、その兆しが日蝕であると信じられていた。


 しかし、劉洪は太史令(たいしれい)(暦を司る官職)ではない。乾象歴も出来たばかりの暦で、国家の正式な歴ではない。


 劉洪の日蝕の予言を聞きつけた蹇碩は、病に伏せる皇帝に進言した。


「暦の計算から、十日後の四月丙午(ひのえうま)、いわゆる新月に日蝕が起こると、奏上がありました。これは天の兆しです。我々はこれに備えて儀式をとり行います。蝕を回避できれば陛下のご病気も自然と平癒されるでしょう」


「そ、そんな儀式があるのか。朕が……天子になってからも、か、過去に、何度か蝕があった筈だが……」


「陛下の御命がかかっておられるのです。私に全てお任せ下さい、陛下。必ずや成功させてみせます。太史令から伝授された古代の秘伝を実行します。ご安心くだされ」


 太史令の王立(おうりつ)は、日蝕が起こる可能性については半信半疑だった。


 だが、蹇碩は反対意見を押しのけて、日蝕を封じる祭祀の儀式に備えた。


 そして迎えた四月一日……夏である。その日は、朝から雲ひとつなく透き通るような晴天であった。


 日蝕を避けるための儀式は計画通りに早朝より行われる。


 宮廷の百官と宦官たちはみな赤い頭巾を着け、雒陽城外の太学(たいがく)の側にある明堂の前に集められた。


 明堂とは天子(皇帝)が政を行う殿堂である。天を鎮める為、天に一番近い場所で祭祀を行う。


 その横に、霊台という天文観測をする為の巨大な祭壇があり、その上で太史令の王立が祭祀を行う。


 赤い頭巾を被る理由は、陰の気から起こると考えられていた日蝕に対し、赤い頭巾を被る事で陽の気を宿すのだという。


「一体何の真似だ、蹇碩め。こんな頭巾など被せおって、馬鹿馬鹿しい。陛下の威光を傘にやりたい放題か。もう我慢ならん!」


 いままで大人しくしていた張譲(ちょうじょう)や趙忠(ちょうちゅう)の怒りは頂点に達した。彼らもまた他の官吏と共に赤い頭巾を被って儀式に備えている。


 黄巾の乱以来、皇帝から少しづつ距離を置かれ、蹇碩を憎み続けた張譲だが、時勢に逆らう事は出来なかった。


 さらに祈祷師たちが数人現れて、天の怒りを鎮めるための、呪文のような唱和が始まった。


(治る訳がない。穏やかだが必ず死に至る薬を盛ったのだ。天子といえど所詮は人よ。茶番が終わり皇帝が崩御されたら、すぐに計画を実行に移すぞ)


 赤い頭巾を被った張譲と趙忠は、蹇碩の儀式の最中にも関わらず、天をも恐れぬ奸計を小声で興じ合っている。


 張譲と趙忠は皇帝の寵愛を失いつつあると感じ、蹇碩に肩入れしている皇帝を密かに憎んでいた。


 午後を過ぎた頃より、厚い雲が絨毯のように空を覆い、遂には太陽の光が届かなくなった。


「急に曇り始めたな……。ん、太鼓が鳴り始めたぞ?」


 人々は外に出てざわつき始めた。北宮では耳が割れんばかりの大音響で銅鑼や太鼓が鳴っている。声をだしても聞こえないくらいだ。


 実際、数人いる祈祷師たちの唱和がまるで聴こえない。


 雲で太陽は見えないが、空は見る見るうちに暗くなっていき、最後には月夜の如き薄暗さとなった。


 宮廷内では灯りが燈されたが、外はまるで夜だ。


「太鼓を打ち続けろっ。陽の気を保ち続けるのだ! 天の怒りは陛下の不徳ではないっ。我らの不徳の為すところなのだ!」


 蹇碩の悲鳴のような叫び声が、太鼓や銅羅の音の隙間から漏れ出すように明堂に響き渡った。


 それから外は少しづつ明るくなっていき、火を灯さなくとも視界を確保できるほどに明るさが回復した。


「これで儀式は終わった。陛下のご病気も平癒されるに違いない。皆の者、ご苦労であった……」


 そういうと蹇碩は百官たちを前に、満足気な顔で明堂を後にした。


 儀式を終えてすぐに蹇碩は「太尉を罷免しろ」と指示を出している。


 古より、日蝕が起こるは天子(皇帝)の不徳とされた。しかし、皇帝を廃する事は臣下の不徳である。


 それで代わりに太尉が責任を取る。後日、太尉の馬日磾(ばじつてい)を罷免して、皇族である幽州牧の劉虞が新しく太尉となった。


(馬鹿が偉そうに。日蝕を予測した劉洪は見事だったが、蹇碩は醜態を晒しただけだ。こんな子供騙しの儀式など何の意味もない。まぁ、貴様の命もあと少しだ。せいぜい良い気分を味わっておくんだな……)


 張譲はしたり顔をして赤い頭巾を脱ぎ捨てた。張譲の言うとおり、儀式も虚しく皇帝はいよいよ最後の時を迎えようとしていた。


「蹇碩を……呼べ……、話……したい事がある……」


 南宮の嘉德(かとく)殿で病床に就く皇帝の劉宏は、ついに死期を悟ったのか、蹇碩を呼んで後事を託そうとした。


「弁……には、天子の任を……受け継ぐ器量はない……。協は、協は……まだ子供…が、その素質が……ある。頼む、協を……ウッ、ゴホッ……ブハッ!」


「陛下! ご無理をなさらぬように。全ては我にお任せあれ。董侯(とうこう)(協)を必ず天子として奉戴し、補佐して参ります」


 十七歳で長男だが軽率な劉弁より、九歳で自分に容姿が似ている次男の劉協を、皇帝は愛していた。協を正式な皇太子に任じていなかったのが心残りだった。


 蹇碩の言葉に安心したのか、皇帝はそのまま眠りについた。まだ微かに息はあるが、それ以降は再び目を開く事はなかった。


 そして、日蝕から十日後の丙辰(ひのえたつ)(十一日)、後漢第十二代皇帝・劉宏は、嘉德殿で静かに息を引き取った。三十四歳の若さであった。

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