第一三八話 虎に翼
故郷の譙より招き寄せられ、久々に雒陽の土を踏んだ曹操もまた、暗雲立ち込める空に向かって決意を新たにしている所だった。
「私をいつも手荒に出迎えてくれる禍々しくドス黒い雲どもよ。許子将の月旦が言う乱世の姦雄を心待ちにしている歓迎の証なのか? それとも京師で巻起こる風雲が急を告げるという警醒なのか? どちらにしても我が道を遮るモノがあれば鬼神であろうと斬り捨て押し通る!」
曹操は十年ほど前に北部尉に任命されており、職務上の使命感で蹇碩の叔父を処刑した、あの時の記憶がふと蘇った。
「そう、たとえ相手が誰であろうとも……」
京師に入ってまず最初に会わなければならないのが袁紹である。
彼が以前に住んでいた雒陽の郊外にある掘っ建て小屋はすでに廃墟となっており、彼の住居は大将軍何進が用意した雒陽城内の邸宅であった。
「久しぶりだな、孟徳」
「ええ、本初さん。貴方のご推薦で三公府より招聘して頂いたとお聞きしました。どうもありがとうございます」
「うむ」
表情は笑顔だが、どことなく素っ気無い袁紹の対応が気になる。曹操も袁紹の本性を全く知らないでもない。
以前なら、見窄らしい普段着で髪も結わず人目を避けて出歩いていたが、今は官服を着て将軍らしい身なりで髪を結い巾を被り、無精髭だった口周りも綺麗に髭の長さを整えている。
まさに四世三公、名門袁家の貴公子といった様相で出迎えてくれた。
「見違えましたね、本初さん」
「どういう意味かね? 孟徳くん」
袁紹の返す言葉には棘があった。まるで焦りから滲みでた苛立ちを感付かれた時のような痛々しさがあった。
亡くなった父母の喪に服す為に六年もの間、ひと目につかぬよう質素に慎ましく暮らしていた袁紹だが、それが見せ掛けの演技である事を曹操は知っていたし、恐らく友人の多くが承知していたであろう。
「いえ、失礼しました。今日の貴方の御姿こそが、本来の相応しい風貌だと思っただけの事です」
曹操の言葉にハッとさせられた袁紹は、少し顔を赤らめて恥じ入ったように下を向いて返事をした。
儒教国家である後漢では、自分の利を考えず只管に父母の喪を弔うのが美徳とされ、またその姿を人々に見せ付ける事が出世の緒を掴む糸口でもあった。
だから見せかけの親孝行や、ワザと見窄らしい格好をして質素な生活をしている事を宣伝するのが、清流派士人たちの流行りでもあったのだ。
「そ、そうか。君こそ昔と違って落ち着いた雰囲気になったな。お互いに成長したという事かな、ハハハ。それより、君には折り入って話しておきたい事があるのだ」
袁紹は笑ってお茶を濁すとすぐに顔を上げて表情を引き締めた。先ほどまでの素っ気無い対応とは大違いの気迫を感じる。
「君に周りくどい言い回しは不要だろうから単刀直入に言うが、我々は……漢室に巣食う悪辣な宦官どもの誅殺を推し計っている、要するに皆殺しにしてやろうって事だ」
曹操は袁紹の目をじっと見つめた。曹操は背が低く目が切れ長の細い目をしているので、背が高く風貌の良い袁紹の目を見る時は、必ず睨むような目になってしまう。
袁紹は昔から曹操の鋭い眼光が嫌いだった。しかし今は曹操のように威勢良く、気概ある男が必要なのだ。
「宦官を皆殺し……。それは穏やかではありませんな。しかし、我々というのは? 他にも誰かこの計画に乗っている方がおられるのですか?」
「もちろんいるとも。かつての奔走の友たちもそうだったのだが、いざ行動に移そうとすると足踏みをしてしまうのだ。残念ながら彼らには実行力がない。党錮の禁を解かれて復職したとはいえ、蛇に睨まれた蛙のように、宦官共の目を気にして動けない奴らばかりだ。唯一、見込みのあった許子遠は、あろう事か、帝の廃立を企む始末だ」
「私の所にも(許攸)子遠が来ましたよ。手を貸せと言われたが断固拒否しました。大義も名分も無いだけでなく、新しく皇帝を擁立するなど、横暴なやり方では失敗するのは明らか。子遠を諭してやめさせようとしたのですが、結局は行動を起こして失敗、ついには行方を晦ませてしまいました」
「子遠の件は私も驚いたよ。まったく馬鹿な奴だ。だが、私達の計画はそんなお粗末なモノではない。大将軍が私の計画に賛成しておられるのだ」
「大将軍! 何大将軍も……」
「そうだが……残念ながら、大将軍は優柔不断で可皇后の意見に左右されがちだ。陛下をお護りする名目で駆り集めた八校尉も、私と君以外はどうにも頼りなくてな。さらには秘密裏で宦官粛清の先鋒にしようと思っていた八校尉なのに、宦官の蹇碩が全権を握っているなど本末転倒だ。そこで、君がこの計画に加わってくれれば『虎に翼』というものだ」
「虎に翼……。韓非子ですね。周書曰く『虎の為に翼を傳くる毋れ。将に飛びて道に入り、人を擇びて之を食はんとす(虎に翼を与えてはならぬ、人里に飛んでいき人々を食べようとするからだ)』さしづめ、私が翼で、貴方や大将軍は虎だという訳ですか。そして虎に食われるのは宦官たち」
虎に翼、とは権勢ある者に更に権勢を与えるという意味である。
袁紹が曹操を気に食わない点について、彼が博識でそれをひけらかす所が癇に障った。もちろん曹操にはひけらかしているつもりは毛頭ない。
「まず最初に君に頼みたい役目というのはだな、蹇碩に取り入って宦官たちに探りを入れて欲しい。宦官たちの動きを掴む為の重要な役目だ」
「本初さん、何を言ってるんですか。十年前に蹇碩の叔父を処刑して恨みを買ってるのは貴方もご存知でしょう?」
「君こそ何を言ってる。張譲が君を陥れようとしたのを救ったのは蹇碩だと聞いたぞ。この数年もの間ずっと無事だったのはそのおかげなんだろ?」
「それは初耳です。そもそも蹇碩とは言葉を交わした事すらないのですが」
二人とも困惑した。もしそれが本当ならば蹇碩には一体どういう魂胆があるのだろうか。
「本当か? それは奇妙だな。だが、ちょうど良い機会じゃないか。蹇碩に近づいて真相を聞き出してくれ。場合よっては使えるかもしれん。まぁ、いずれ宦官どもは皆殺しにしてやるのだがな」
袁紹はどうしても宦官を殺戮しないと気が済まないらしい。かつて陰に日向に清流派の志士たちを宦官の魔の手から保護し、支援してきたのだから当然かもしれない。
「蹇碩の件はなんとかしてみましょう。しかし、宦官を全て誅殺する計画に関しては、どうかと思いますね。古今より宮廷には宦官が必要とされています。問題は陛下を佞言や甘言で誑かし、政を乱す一部の宦官たちです。あいつらを排除し忠臣のみを宮廷に残せばすむ話ではありませんか? それならば我々だけで事足りるでしょう」
またもや曹操の言動は、袁紹の虚栄心を刺激してしまった。
「そんな甘い考えでは、朝廷の改革は出来ぬぞっ。禍根は元から断たねば、また同じことの繰り返しだ。今までの歴史を見れば君もわかるであろう。一気呵成に遂行せねば自分達の身が危うくなるぞ。その為に必要なのが、宦官を粛清する為の大義名分と実力行使できる武力なのだっ」
曹操はそれ以上、言い返そうとは思わなかった。宦官であった自分の祖父の事を思うと胸が痛むが、袁紹の言う事にも、理があると本心では認めてしまっていたからだ。
―ー乱世が眼の前に迫っている―ー そんな予感が脳裏を駆け巡った。我に戻った曹操は袁紹に対して言葉を濁し躊躇しながら生返事をした。




