第一三七話 西園軍
何進は笑みを隠すように咳払いすると、襟を正して袁紹に問い直した。
「君は、表向きだけ孟徳と仲良くしているのかと思っていたが、何か根深い事情があるのだろうな。やはり宦官の孫である事が、気に食わんのかね?」
「もちろん、それもありますが……これを見てください」
袁紹は両腕の袖を捲くると、無数の小さな傷があるのを何進に見せつけた。
「これは、この傷は一体?」
「若い頃に荊棘の群生に入り込んでしまった事がありました。大した傷ではありませんが、この傷を見るたびに思い出すのです」
袖の中に腕をしまうと、袁紹は続けて話し始めた。
「あの当時、私は太学生でした。その頃に奔走の友となったのが、孟徳や張孟卓、許子遠、何伯求でした。中でも孟徳とは馬が合い、よくつるんで悪さをしたものです」
「君が昔は悪童だったとは、知らなかったな。フフフ」
「恥ずかしい話ですが、若気の至りで悪さを繰り返してました。――十代の頃、共通の友人が妻を娶るというので、冗談半分でソイツの嫁をかっ拐ってやろうと、孟徳が言い出したのです。で、婚礼の夜にその邸に二人で忍び込みました。花嫁を脅して孟徳が担ぎ上げたまでは良かったが、そこで私はドジを踏みました。邸の塀から転げ落ちて、荊棘の群生していた所に落ち込んだのです」
「なんと。それでどうなったのだ?」
「そこで全く動けなくなりました。刺が体中に刺さり地獄の苦しみです。私は思わず孟徳に言いました。『君は先に逃げてくれ』と。どうせ捕まっても袁家の放蕩息子だと知れば手荒な真似はしないと高を括ったのです。私が大声で悲鳴を上げたもので、邸の中からわらわらと人が出てきました。花嫁がいなくなった事に気付いたのでしょう。しかし次の瞬間、とんでも無いことが起こりました。曹操が大声で叫んだのですよ。『ここに花嫁泥棒がいるぞ!』ってね」
「まさか!」
「そのまさかですよ。私は大慌てで荊棘の中から飛び出して孟徳と一緒に逃げました。二人とも必死で逃げたので、孟徳も担ぎ上げた花嫁を、どこに置いたのか忘れてしまうくらいでした」
「ははは、面白い話だ。孟徳に助けられたという訳か。腕の傷をみるたびに、それを思い出すというわけか」
「そうです。私はあの時の事が忘れられない。あの孟徳の人を小馬鹿にしたような機転と、何より孟徳に助けられたという恥辱が、私の脳裏から離れないのです」
「だから孟徳を典軍校尉に推薦し、宦官抹殺の先兵として利用してやろうというのか」
「理由はそれだけではありません。奴は有能な男ですが、人を食った態度が鼻につく。まぁ、利用するだけ利用してやろうというだけの話です」
「だが、まるで捨て駒のような扱いじゃないか。そんな有能な男を、捨て駒扱いで典軍校尉にするのはどうかと思うが?」
袁紹は腰帯から刀を外して地面に立てると、刀の柄に両手を重ねて置いた。
「八校尉そのものが、我らが飛躍するための、捨て駒のような存在でしかありません。私を除いてはね。孟徳が本当に有能なら上手く立ち回るでしょう」
「ふ、それもそうだな。きみの言うとおりに事を進めよう」
何進と袁紹によって秘密裏に進められた皇帝直属の雒陽防衛軍は、後宮の西にある巨大な庭園……いわゆる西園に常駐する軍として、西園軍と呼ばれた。
その西園軍は上中下の三将軍を中心に、さらにその僚属として五つの校尉を麾下に置いた。
大将軍の何進は別として、上軍校尉を蹇碩、中軍校尉の袁紹、下軍校尉には鮑鴻、の三校尉を三軍とした。その麾下に典軍校尉の曹操、助軍左校尉の趙融、助軍右校尉の馮芳、左校尉の夏牟、右校尉の淳于瓊、と続いた。
この八校尉を袁紹と何進は西園八校尉と名づけた。
何進は皇帝を通じてそれぞれの校尉を任命し指揮権を保持しようとしたが、予想通り蹇碩だけは何進の下に就くのを良しとしなかった。
「陛下、この度は私の如き者を上軍校尉に任じて頂き、誠に有難う御座います」
宮女とともに華美な自室で横たわる皇帝に、蹇碩は普段通りの謁見を許されている。
「お伺いしたい件があるのですが、宜しいでしょうか、陛下」
皇帝との会話を直接出来るのが蹇碩や張譲ら高級宦官の強みである。三公と同等の重職である大将軍といえども、皇帝と直に話を出来る機会は少ない。
女人禁制の後宮で政を語り合えるのは、自ずと高級な宦官、とりわけ皇帝のお気に入りの宦官に限られてくる。
周りに侍らせていた宮女たちは、蹇碩が入ってくるとすんなりと部屋の外へと出て行った。
蹇碩が醸し出す宦官とは思えぬ風格、男性器を失うと華奢で甲高い声になるが、剛健な体つきで声はガラガラの掠れ声。
唯一、髭が生えていない事が宦官の証であるが、まるで武将然とした風格を醸し出している。宮女たちが怖がって退いていったのも頷ける。
「なんだ? 碩よ。新設する朕の直属軍の件か。朕も其方とその件で相談しようと思っていたのだが、先に其方の話を聞いてやろう」
胡人(異民族)が使用する普段着のままで横たわっていた皇帝は、頭を上げて起き上がると胡座をかいて座り直した。
「それでは単刀直入に言わせて頂きます。確かに、陛下の直属軍を創設する、と何進は謳っていますが、何の事はない。今までと同じく、八関の校尉を任じて京師にて常駐させるだけの事。何進は四世三公の袁紹と組んで、この度の八校尉を『西園八校尉』などと呼んで、さも自分らの手柄であるかの如く振る舞っています。何進に軍権をすべて渡してしまってはなりません」
このように歯に衣着せぬ物言いは、皇帝のお気に入りである蹇碩だからこそ許されるのである。たとえ三公や大将軍であろうと、顔を上げて皇帝の目を見ることさえ禁じられているのだ。
「よかろう、朕が相談したかった事とはまさに何進の事よ。肩書だけの大将軍のくせに、あ奴の苦虫を潰したような言動がどうも気になってな。何か得体の知れぬ一物が、腹の中にあるような気がしてならぬのだ。気の知れた其方なら安心して朕の軍を任せられる。中蔵府(宮中の財政機関)からも軍資を放出させよう。西園の厩舎にいる名馬たちも使うが良い。いいか、上軍校尉である其方に全権を掌握さたいと思っている。いいな、責任は重大だぞ」
蹇碩は片膝を地に着き、しばらく頭を垂れると徐ろに顔をあげて両手を顔の前に付き出した。右手でに握り拳を作って左の掌で右拳を包むと、威勢の良い覇気のある返事で皇帝を歓ばせた。
「御意! 陛下の皇軍を何進ごとき屠殺屋の好き放題にはさせませぬ。名ばかりの成り上がり将軍に一体何が出来ますか。四方を遍く平定せしめ蛮族ども打ち払えるのは、陛下のご意向を受けた私以外に有り得ませぬ。陛下のご威信を天下に知らしめ、必ずや漢室の安寧を永続させましょう」
今や皇帝劉宏が最も信じられるのは、かつて父や母だと敬っていた張譲や趙忠ではない。本当に頼れるのは屈強な身体と精神を持ち合わせた宦官、蹇碩のみである。
蹇碩の意気軒昂な返事に皇帝も思わず心を踊らせている。頼れるのはこの将軍だけなのだと。
皇帝は蹇碩との話を終えると宮中から出て西園の広場を眺めた。夏も終わりを告げて涼しげな風が吹いているというのに、見上げると空には暗雲が立ち込めている。
「そこにいるのは雷神か? それとも京師を焼き尽くそうとする炎の化身か? 朕がいる限り、貴様ら悪鬼の好きにはさせんぞっ。漢室の社稷を腐らす叛逆者どもの血で、黄河の色を真っ赤に染め直してやろうぞっ」
暗雲立ち込める京師の空を眺めて、決意を心にしているのは皇帝一人ではなかった。もう一人、風雲を呼び寄せる快男児が京師に足を運んでいた。




