第37話、水の刃、許都を穿つ
荀彧という知性の灯火を失ったことに、曹操軍はまだ気づいていなかった。
そして、彼らが気づかぬ間に、孫呉が放った「水の刃」は、その鋭利な切っ先を、曹操政権の心臓部へと向けていた。
淮水を遡上し、さらに内陸の運河や支流を巧みに利用しながら、彼らは夜陰に乗じて神出鬼没の奇襲を繰り返した。
兵站基地を焼き、武器庫を破壊し、油断していた小都市を陥落させる。その度に上がる炎と混乱の報は、前線で戦う曹操軍の将兵たちに、じわじわと不安と動揺を広げていった。
そして、ついにその刃は、最終目標である曹操の本拠地、漢の皇帝が住まう都・許都の間近にまで達した。許都の守りは、本来ならば堅固なはずだった。
しかし、主力部隊のほとんどは遠く南の前線に出払っており、都に残る兵力は決して多くはない。加えて、まさか敵がこれほど深く、しかも水路を使って肉薄してくるとは、誰も予想だにしていなかった。その油断が、致命的な隙を生んだ。
月も隠れた漆黒の夜。周泰と甘寧は、最後の、そして最大の奇襲作戦を決行した。特殊な訓練を受けた兵たちが、音もなく城壁の一部に取り付き、縄梯子や鉤縄を使って内部へと侵入。そして、内側から数か所の城門を一斉に開け放った。
「開門! 孫呉の兵、討ち入りだ!」
鬨の声と共に、潜んでいた精鋭たちが、怒涛の如く城内へと雪崩れ込んだ。
「て、敵襲! 敵襲だ!」
「城門が破られたぞ!」
「ば、馬鹿な! どこから敵が!?」
「陛下をお守りしろ! 皇宮へ!」
深夜の許都は、一瞬にして混乱に包まれた。
眠りから覚めた守備兵たちは、何が起こったのかも理解できぬまま、闇の中から現れる屈強な江東の兵士たちの刃にかかり、次々と倒れていく。
抵抗らしい抵抗もできず、守備隊は瞬く間に壊滅した。
周泰は皇宮を包囲し、内部への侵入は厳禁としつつも、帝の身柄を確保(事実上の保護下に置く)。
一方、甘寧は部隊を率いて城内の要所を制圧し、府庫や官庁などを押さえた。
夜明けを迎える頃には、漢王朝の、そして曹操政権の首都・許都は、完全に孫呉の手に落ちていた。
略奪や民間人への危害は、孫策からの厳命により固く禁じられていたため、城内の混乱は最小限に抑えられたが、その政治的・軍事的な衝撃は計り知れないものがあった。
「許都陥落! 皇帝陛下は孫呉の保護下に!」
その報せは、各地の前線で戦う曹操軍の全将兵へと瞬く間に伝わった。本拠地が、首都が、いとも簡単に敵の手に落ちたという事実。
そして自分たちが忠誠を誓う(あるいは、大義名分として掲げる)漢の帝が、敵の管理下に置かれたという現実。
それは彼らの戦う理由そのものを根底から揺るがす、致命的な打撃であった。
動揺は瞬く間に全軍へと伝播し、兵士たちの士気は見る見るうちに崩壊していく。
これまで鉄壁の守りを誇っていた合肥の夏侯惇も、宛の曹仁も、漢中の夏侯淵も、この報には顔面蒼白となり、麾下の兵たちの動揺を抑えることができない。
指揮系統にも明らかな混乱が生じ始め、組織的な抵抗力は急速に失われていった。
孫策は許都陥落の確報が彼の本陣に届くと同時に、全ての軍勢に向けて、雷鳴のような声で号令を発した。
「時は来た!敵は狼狽し、戦意を喪失している!我らが掲げる大義は天に通じ、水の刃は許都を穿った!今こそ、国賊・曹操を滅ぼし、真の太平を打ち立てる時ぞ!全軍、これより総攻撃を開始する!!敵を一人残らず殲滅せよ!!」
その号令は、孫呉全軍の士気を爆発させた。これまで膠着していた各地の戦線で、孫呉の兵士たちは、勝利への確信と高揚感に満ち溢れ、一斉に猛攻を開始した。
宛城では、孫策自らが戟を振るい、動揺する曹仁軍の守備隊を蹴散らしながら城壁へと迫る。
合肥では、呂蒙と太史慈が、浮き足立つ夏侯惇軍の隙を突き、左右から猛然と挟撃する。
漢中方面でも、馬超と黄忠の率いる部隊が、混乱する夏侯淵軍を相手に、怒涛の勢いで攻め立てる。
地の利も、兵数の差も、もはや意味をなさなかった。士気と勢いで勝る孫呉軍の前に、一度崩れ始めた曹操軍の戦線は、なすすべもなく瓦解していく。
兵士たちは武器を捨てて逃亡し、将は部隊をまとめることができない。各地で孫呉軍が勝利を重ね、曹操軍は壊走を始めた。それは、まさに雪崩を打つような、一方的な敗走であった。
遠く襄陽の城楼で、戦況報告を受けていた大喬は、許都陥落、そして総攻撃開始の報に、静かに手を合わせ、天を仰いだ。
自らが立案に関わった「水の刃」が、これほどまでに劇的な成果を上げた。
夫が、そして孫呉が、ついに長年の宿敵を打ち破ろうとしている。そのことに、深い安堵と、込み上げるような喜びを感じていた。
しかし同時に、首都陥落という事態のあまりの大きさに、これが今後の中華にどのような波紋を広げるのか、そしてこの大勝利の先に何が待っているのか、新たな責任感と、一抹の不安にも似た緊張感を、彼女は感じずにはいられなかった。
だが今は、ただ夫の、そして孫呉の完全なる勝利を祈るのみであった。
周瑜と大喬の策は、見事に曹操軍の心臓部を貫き、その混乱に乗じた孫策の総攻撃によって、長きにわたって拮抗していた両雄の力関係は、ついに、そして決定的に覆されようとしていた。
各地で敗走を重ねる曹操軍。勝利に向かって突き進む孫呉軍。
中華の覇権を賭けた戦いは、今、まさにそのクライマックスを迎え、新たな時代の扉が、音を立てて開かれようとしていた。




