第37話、奇襲は成り、王佐は散る
漆黒の闇が中原の大地を覆う深夜。
淮水を密かに遡上してきた周泰と甘寧率いる孫呉の精鋭水軍部隊は、ついに目標の一つである曹操軍の後方兵站基地へと到達した。
河岸に築かれたその拠点は、前線の喧騒とは無縁のように静まり返り、見張りの兵士たちの姿もまばらで、油断しきっているのは明らかだった。
合図と共に、数十隻の走舸から、影のように兵士たちが音もなく岸へと降り立つ。熟練の兵たちは、慣れた手つきで防御柵を乗り越え、闇に紛れて拠点内部へと深く侵入していく。
「放て!」
周泰の号令一下、松明を持った兵士たちが、備蓄されていた大量の兵糧、山と積まれた武具、そして宿舎や倉庫へと、次々と火矢を放ち、火種を投げ込んだ。
乾燥した秋の空気の中、炎は瞬く間に燃え広がり、夜空を赤々と焦がしていく。
「敵襲だ! 敵襲だぞ!」
「火の手が! 水を! 水を持ってこい!」
「どこだ! 敵はどこから来たのだ!?」
突然の襲撃と、燃え盛る炎に、眠っていた曹操軍の守備兵たちは大混乱に陥った。どこからどれだけの敵が攻めてきているのかも把握できぬまま、右往左往するばかり。
その混乱の中へ、周泰と甘寧率いる孫呉の精鋭たちが、鬨の声を上げて襲いかかった!
「どけぇ! 邪魔だ!」
甘寧は二本の戟を振るい、行く手を阻む敵兵を薙ぎ払う。
「遅れるな!我らも続くぞ!」
周泰もまた、その巨躯から繰り出される剛剣で、敵兵を次々と斬り伏せていく。
闇の中から現れた精鋭たちの前には、なすすべもなく、曹操軍の兵士たちは断末魔の叫びを上げながら倒れていった。
阿鼻叫喚の地獄絵図。一夜にして、曹操軍にとって生命線ともいえる重要な兵站基地の一つは、灰燼に帰した。
作戦は、完璧な成功と言えた。
「見事な手際だな、周泰!」
燃え盛る炎を背に、甘寧が獰猛な笑みを浮かべる。
「休んでいる暇はないぞ、甘寧。」
周泰は冷静に答えた。
「夜明けまでに、我らは次の拠点を叩かねばならん。兵をまとめよ!行くぞ!」
彼の声には、任務を遂行する鋼のような意志が宿っていた。部隊は速やかに隊列を整え、燃え盛る基地を後にして、次の目標地点へと、再び闇の中を疾走し始めた。
しかし、次の拠点へと向かう道すがら、彼らの行く手に、予期せぬ人影が立ちはだかった。
月明かりの下、十数名ほどの僅かな手勢を従え、質素ながらも気品を漂わせる文官風の男が、静かに道の中央に立っている。
周泰は思わず馬を止め、眉をひそめた。
(あの佇まいは…文官ではないか…? なぜこのような場所に、しかもこのような少人数で…?)
その文官風の男、荀彧は、周泰率いる殺気を放つ一団を、静かに、しかし少しも怯むことのない、澄んだ眼差しで見つめていた。
彼は、数日前に曹操から送られてきた「空の器」を見た時、全てを悟った。
自らの忠義は、もはや主君には届かない。自らの存在は、もはや不要とされている。深い絶望が彼を襲った。毒を仰ぎ、静かにこの世を去ることも考えた。
しかし、彼はその道を選ばなかった。
たとえ主に疎まれようとも、自らの理想が潰えようとも、自分は最後まで漢の臣であり、そして一度は曹操と共に天下の安寧を夢見た男である。
ならば、無様に死を選ぶのではなく、この身をもって、迫り来る敵の刃を少しでも食い止め、主君が築き上げようとしたもの、そして自分が信じた魏の未来のために、最後の最後まで忠義を貫くべきではないか。
彼はそう決意し、彼を慕い、最後まで付き従うことを選んだわずかな家臣たちだけを連れて、自ら死地へと赴いたのだ。
敵の奇襲部隊がここまで深く侵入している以上、もはや戦局の挽回は難しいだろう。それは、聡明な彼には痛いほど分かっていた。
だが、それでも彼は、ここに立っていた。己の信念のために。
「貴公は、荀彧殿とお見受けするが、間違いござらぬか?」
周泰は馬上から問いかけた。
「なぜ、このような場所に? 降伏なされるか? それとも、我らの道を阻むと申されるか?」
その声には、歴戦の将としての威圧感が滲んでいた。
荀彧は静かに、はっきりとした声で答えた。
「いかにも、荀彧である。降伏は致さぬ。…ただ、貴殿らの行軍を、この先へは通すわけにはいかぬ。この老骨、ここで朽ち果てようとも、貴殿らを足止めさせていただく。それが、この荀彧にできる、主君への、そしてこの国への、最後の奉公と心得ればこそ…。」
彼の声は穏やかだったが、その奥には、死をも恐れぬ鋼のような覚悟が秘められていた。
彼は、腰に佩いていた、おそらくは装飾品としてしか使ったことのないであろう、質素な作りの剣を、ゆっくりと抜き放った。
周泰は、しばし馬上から、剣を構える荀彧の姿を見つめていた。その覚悟が、見せかけや虚勢ではないことを理解した。
武人ではない、文官であるこの男が、自らの死を覚悟して、ここに立っている。その姿には、敵ながら敬意すら覚えた。だが、ここは戦場。
そして、彼には遂行すべき重大な任務がある。
「見事なご覚悟。なれど、我らもまた、退くわけには参りませぬ。御免!」
周泰は答えると、愛馬を駆り、一気に荀彧へと迫った。荀彧もまた、慣れぬ手で剣を構え、迫り来る圧倒的な武の圧力に、必死に立ち向かおうとした。
しかし、文官である彼が、孫呉屈指の猛将として知られる周泰の一撃を受け止められるはずもなかった。
閃光が一筋、月下に煌めいた。
周泰の振るった剛剣は、荀彧の構えた剣を容易く弾き飛ばし、そのまま彼の体を深々と貫いた。
「ぐ……っ。」
荀彧の口から、か細い呻き声が漏れる。彼の体は糸が切れたように崩れ落ち、地面に倒れ伏した。
最期の瞬間まで、その瞳は、遠い許都の空、そして彼が支え続けた漢王朝の幻影を見つめているかのようだった。
曹操に最も信頼され、そして最も疎まれた稀代の王佐の士、荀彧。その清廉にして気高い魂は、こうして戦場の片隅で、誰に看取られることもなく、静かに天へと昇っていった。
周泰は、馬上から荀彧の亡骸を一瞥すると、短く「行くぞ。」とだけ命じ、再び部隊を前進させた。彼の心に、荀彧の最期がどのような感慨を残したのかは分からない。
ただ、戦いはまだ終わっていない。
夜空を焦がす炎と、地に流れた忠臣の血が、戦争の持つ非情さと、歴史が今まさに大きく動こうとしていることを、静かに、しかし雄弁に物語っていた。
孫呉の「水の刃」は、予期せぬ障害を排除し、さらに深く、曹操軍の心臓部へと迫っていく。




