第36話、膠着する戦線と空の器
孫呉による北伐の戦端は、各地で開かれた。
東の合肥方面では、太史慈や呂蒙率いる江東軍が、夏侯惇の守る堅城に猛攻を仕掛ける。
中央の宛城方面では、孫策自らが本隊を率い、曹仁の鉄壁の守りをこじ開けようと、連日激しい攻城戦を繰り返す。
西の漢中方面でも、馬超や黄忠らが夏侯淵の部隊と一進一退の攻防を繰り広げていた。
戦いは熾烈を極めた。城壁には無数の矢が突き刺さり、野には双方の兵士たちの骸が横たわる。
孫呉軍は勢いに乗って猛攻を仕掛けるが、迎え撃つ曹操軍もまた、百戦錬磨の将兵たちが巧みな戦術と地の利を活かしてこれを防ぎ、容易に突破を許さない。
互いに決め手を欠き、各地の戦線は次第に膠着状態に陥りつつあった。それは、力と力が正面からぶつかり合い、互いの血を流し合う、壮絶な消耗戦の様相を呈し始めていた。
しかし、この各地での激戦と膠着状態こそが、孫呉が描いた絵図の一部であった。曹操軍の意識と兵力が、三方面の主戦線に釘付けになっている、まさにその隙を突いて。
孫呉の切り札、大喬が「水の刃」と名付けた作戦が、静かに、着実に実行に移されていた。
周泰、そして甘寧。孫呉が誇る二人の水上戦の達人に率いられた数千の精鋭たちが、数十隻の小型で高速な戦闘船「走舸」に分乗していた。彼らは夜の闇と、川面を漂う霧にその姿を隠し、揚州から北へと続く広大な水路網、淮水へと音もなく侵入していた。
風受ける帆に導かれるように。
櫂を漕ぐ音も、船を進める水音も、極限まで抑えられている。彼らは、まるで水面を滑る影のように、曹操軍の張り巡らせた警戒網を巧みに掻い潜り、敵地の奥深くへと進んでいく。
その目は、曹操軍の後方を支える兵站線、そして油断しているであろう内陸の拠点へと、鋭く向けられていた。
一方、許都の荀彧の元にも、各地の戦況は刻々と伝えられていた。膠着する戦況、双方の甚大な被害…。彼は、書斎でそれらの報告書を冷静に分析しながら、胸騒ぎを抑えることができなかった。
やはり、周泰の不在が気になる。孫策ほどの男が、何の意図もなく、あれほどの将を遊ばせておくはずがない。そして、最近になって淮水流域での不審な船の目撃情報が、断片的ながらも彼の耳に入り始めていた。
(間違いない…孫策は、水路を使って我らの背後を突くつもりだ…!)
荀彧の脳裏には、最悪の事態――後方の兵站基地が襲われ、前線の軍が補給を断たれて壊滅する――という光景が、ありありと浮かんでいた。
これは一刻の猶予もない。彼はすぐさま筆を取り、自らの懸念と、水路方面への最大限の警戒、そして可能ならば迎撃部隊を派遣すべきであるという進言を、切々と言葉を尽くして書き記した。
そして、最も信頼できる使者にその書簡を託し、宛方面で指揮を執る曹操の本陣へと急送させた。
数日後、その書簡は曹操の元へと届けられた。
しかし、幕僚が恐る恐る差出した書簡の差出人が荀彧であると知ると、曹操は冷ややかに鼻を鳴らし、封を切ることすらなく、無造作にそれを傍らの火鉢へと投げ入れた。
燃え上がる炎が、荀彧の憂国の情と必死の警告を、あっけなく灰へと変えていく。
「……。」
曹操は、その様子を無表情に見つめていた。もはや、自分に異を唱え、古き漢王朝への忠義に固執する老臣の言葉など、聞く価値もない。彼の覇道に、荀彧の存在はむしろ邪魔でさえあった。
さらに数日後。許都の荀彧の元へ、曹操からの使者が一つの漆塗りの箱を届けた。荀彧は、一縷の望みを託し、あるいは叱責の言葉が記されているのかと、震える手でその箱を開けた。しかし、中にあったのは――
何も書かれていない、真っ白な紙が一枚。
いや、それすらなかった。ただ、がらんどうの、空の器があるだけだった。
それを見た瞬間、荀彧は全てを悟った。
これが、長年仕え、共に歩んできたはずの主君からの、自分への答えなのだ。
「お前の居場所は、もうない」「お前の言葉も、存在も、もはや不要である」と。
あるいは、それは、自ら死を選べという、無言の、そしてこの上なく冷酷な示唆なのかもしれない。
荀彧は、その空の箱を前に、力なく崩れ落ちた。彼の頬を、一筋の熱い涙が静かに伝っていく。
漢王朝の行く末、そして、かつては共に理想を語り合ったはずの主君の未来…。深い絶望と、裏切られた悲しみが、彼の心を打ち砕いた。
各地で激戦が続く中、孫呉の「水の刃」は、誰にも気づかれることなく、着実に曹操軍の懐深くへと迫っていた。そして、その危機を唯一正確に予見していたであろう忠臣の警告は、覇王の冷酷な拒絶によって、闇へと葬り去られた。
報われぬ忠誠、届かぬ諫言。この致命的なすれ違いが、間もなく訪れるであろう戦局の激変、そして一人の偉大な人物の悲劇的な運命を、静かに準備していた。




