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第35話、龍虎動く、そして見通す瞳

運命の朝が訪れた。秋の澄んだ空気が、出陣を待つ兵たちの熱気をわずかに冷ます。


襄陽の城門前には、孫呉の未来を賭けた北伐軍が、朝日を浴びて整然と列をなしていた。

総大将・孫策は、大喬が心を込めて縫い上げた真新しい戦袍を風になびかせ、愛馬に跨り全軍を見渡した。

その瞳には、揺るぎない決意と、眼前に広がる覇道への渇望が燃えている。


「我らが目指すは北!中原に巣食う逆賊・曹操を討ち、父上の、そして周瑜の悲願を果たす時が来た! この戦に勝利し、真の太平をこの中華にもたらすのだ! 全軍、出陣!」


孫策の声が高らかに響き渡ると、大地を揺るがすような鬨の声が巻き起こった。旗指物が林立し、銅鑼の音が鳴り響く中、孫呉の大軍は、中華の歴史を塗り替えるであろう決戦の地へと、堂々と進軍を開始した。


孫策出陣の報は、瞬く間に早馬によって許都の曹操の元へともたらされた。


「申し上げます! 孫策、自ら大軍を率い、襄陽を発ち北上を開始! その数、およそ二十万!」


報せを受けた丞相府は、にわかに緊張感に包まれた。


「ついに来たか、江東の若造めが!」

「荊州・益州を手に入れ、勢いづいておるな!」

「周瑜亡きとはいえ、油断は禁物ですぞ!」


家臣たちの声が飛び交う中、曹操は玉座にあって、冷静に地図を見つめていた。

その表情は厳しく、しかしどこか、待ち望んでいた好敵手の動きに、不敵な笑みすら浮かべているようにも見えた。


「慌てるな。孫策の動きは想定の内だ。」


曹操は静かに、しかし威厳に満ちた声で命じた。


「夏侯惇、そなたは精鋭を率いて即刻、東の合肥へ向かえ! 孫策の主力の一部は必ずや淮水流域を狙ってくるはず。これを断固阻止し、隙あらば逆撃せよ!」


「ははっ!」


「曹仁、そなたは中央の要衝、宛城の守りを固めよ! 荊州から許都へ至る最短経路だ。ここで敵主力を食い止めるのだ!」


「御意!」


「夏侯淵、そなたは西の漢中方面の守りを強化し、益州からの動きに備えよ! 関中への侵入は断じて許さん!」


「お任せください!」


曹操は、孫策軍がどの方面を主攻としてくるか、まだ確信は持てなかったが、考えうる三つの主要な侵攻ルート全てに、最も信頼する将と十分な兵力を配置し、鉄壁の防衛網を築き上げた。


そして、それぞれの将に、守り一辺倒ではなく、機を見て反撃に転じることも指示し、孫策にプレッシャーをかけることも忘れなかった。

全軍への指示を終え、一人になった曹操は、再び地図に目を落とした。


(孫策…その若さでここまでのものを作り上げるとは、まさに恐るべき者よ。だが、この曹操がいる限り、天下はお前の思い通りにはさせぬ。この戦いで、中華の真の覇者が誰であるか、決めようではないか!)


彼の胸には、生涯最大のライバルとなるであろう孫策への、強い闘志が燃え上がっていた。


許都全体が、南からの脅威への対応に追われ、慌ただしい空気に包まれる中、丞相府の一角にある広大な屋敷だけは、まるで別世界のように静寂に包まれていた。

その屋敷の主は、荀彧。かつては曹操が最も頼りとし、「我が子房」とまで称えた、当代随一の王佐の才を持つ人物である。


しかし、曹操が魏公となり、さらに魏王へとその地位を高め、漢王朝からの禅譲すら視野に入れ始めた頃から、二人の間には埋めがたい溝が生じていた。

あくまで漢室の忠臣であろうとする荀彧と、自らの覇道を突き進む曹操。

その理想の違いは、次第に両者の関係を冷え込ませ、荀彧は徐々に政権の中枢から遠ざけられるようになっていた。


今回の対孫呉決戦に向けた重要な軍議にも、彼の姿はなく、各方面軍の指揮官リストにも、その名は記されていなかった。


それでも、荀彧は天下の安寧を願う心を捨ててはいなかった。疎んじられながらも、彼は自室に籠り、各地から寄せられる膨大な報告書に黙々と目を通し、独自の分析と思索を続けていた。彼の類まれなる慧眼は、些細な情報の不整合や、報告の行間に隠された真実を見抜く力を持っていた。


その日も、荀彧は孫策軍の出陣報告と、それに対する曹操軍の配置に関する書類を注意深く読んでいた。

孫策軍の兵力、主な将の名前、進軍経路…。報告は詳細を極めているように見える。しかし、彼の目は、ある一点で止まった。


(……妙だ。)


彼は、孫策軍の主要な将の名前が列挙された箇所を、何度も指でなぞった。程普、黄蓋、韓当といった古参の宿将、呂蒙、太史慈、黄忠、魏延、馬超といった勇猛な将、魯粛、徐庶、龐統、法正、陸遜ら智謀の士…。綺羅星のごとく名が並んでいる。だが…


(周泰の名がない…?)


孫策からの信頼も極めて厚く、常にその側近くで護衛を務めるか、あるいは水軍の精鋭部隊を率いる重要人物のはずだ。この、孫呉の命運を賭けた大戦に、彼が何の理由もなく参加しないとは、到底考えられない。


(病に伏しているという報告はない…。他の将に比べて目立たぬ任務についている? いや、周泰ほどの将が、そのような扱いを受けるはずがない。では、一体どこに…? 孫策は、我らが把握している三方面への進軍の他に、何か別の動きを隠しているのではないか…? 周泰は水軍の指揮にも長けている。まさか…?)


荀彧の脳裏に、一つの可能性が浮かび上がった。それは、まだ確証のない、微かな疑念に過ぎなかった。

しかし、彼の長年の経験と洞察力が、その可能性の危険性を強く警告していた。


疎まれ、政の中枢から遠ざけられた王佐の士。

彼の声は、もはや曹操の耳には届きにくい。この荀彧の鋭い気づきが、来るべき大戦の行方に何らかの影響を与えることができるのか、それとも、ただ歴史の闇に埋もれてしまうのか…。


一方、孫策率いる孫呉の大軍は、大喬が立案に関わった「水の刃」の策を胸に秘め、意気揚々と北上を続けていた。

中華の覇権を賭けた龍虎の激突は、両陣営の様々な思惑と、見えざる計略が複雑に絡み合いながら、いよいよその火蓋が切られようとしていた。

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