第34話、出陣前夜、月下の想い
翌日には、孫呉の命運を賭けた大軍が、北の巨人・曹操を討つべく襄陽を発つ。
その前夜、城内は出陣準備の慌ただしさの中にも、どこか静かな緊張感と、歴史的な決戦に臨む者たちの高揚感が漂っていた。
夜空には冴え冴えとした月が懸かり、まるで城内にいる一人ひとりの胸の内を照らし出しているかのようだった。
繰り返された軍議の末、孫策は最終的な決断を下した。
魯粛ら軍師たちが練り上げた正面からの攻撃計画を主軸としつつ、大喬が提示した「水の刃」、水軍を用いた敵後方への奇襲策を採用した。
今は亡き周瑜の策。そして妻が軍略に関わることへの驚きはあったものの、その策の有効性と情報に基づいた緻密さを認め、孫策は彼女の才覚と、それを支える「水月」の力を信じることにしたのだ。
その夜、孫策は自室で一人、愛用する戟を手に取り、その冷たい感触を確かめていた。窓の外に浮かぶ月を見上げ、彼の胸には万感がこみ上げてくる。
江東の虎と謳われた父・孫堅が果たせなかった天下統一の夢。志半ばで凶刃に倒れた無二の親友・周瑜との誓い。そして今、眼前に立ちはだかる最大の壁、中原の覇者・曹操。
負けられない、いや、必ず勝つ。
その強い決意と共に、江東、荊州、益州という広大な領土と、そこに生きる数多の民の命運を背負うことの重圧を、彼は改めて感じていた。
ふと、傍らに置かれた、大喬が心を込めて縫い上げた新しい戦袍に目が留まる。妻の存在こそが、自身の力の源泉であり、帰るべき場所なのだ。そして、隣室で眠っているであろう、腕の中に抱いた時の温もりと重さが忘れられない息子・孫紹の顔を思い浮かべる。
愛しい家族、信頼する臣下、そしてこの国の未来を守るためにも、この戦いに、自分の全てを懸けなければならない。孫策の瞳に、揺るぎない覚悟の光が灯った。
同じ月明かりの下、大喬は自室で、眠っている孫紹の穏やかな寝顔を見守っていた。傍らには、同じように物思いに沈む妹、小喬の姿がある。
明日、夫は死地へ赴く。その無事を、そして輝かしい勝利を、彼女はただただ祈るしかなかった。しかし、同時に、自らが立案に関わった「水の刃」の策が、夫や多くの兵たちの命運を左右するという事実に、重い責任も感じていた。
(情報は常に変化する…『水月』からの報告に、些細な兆候も見逃してはならないわ…。)
諜報部隊「水月」の実働指揮は孫尚香に任せているが、北方に張り巡らされた情報網から刻々と届けられる断片的な情報を繋ぎ合わせ、分析し、戦況の変化に対応するための判断を下すのは、彼女自身の役目だ。
見えざる敵との情報戦は、軍勢が出陣する前から始まっている。そして、それは決着の瞬間まで続くのだ。大喬は、夫への変わらぬ深い愛情を胸に、彼と共に歩むと決めた未来を信じ、自らの戦いを続ける覚悟を固めていた。
小喬もまた、眠る我が子・孫紹の小さな手を握りしめながら、窓の外の月に祈りを捧げていた。明日、出陣していく孫策の雄々しい姿を、妻として見送る。その無事を願う気持ちに、嘘はない。
しかし、彼女の心の奥底には、若くして散ったかつての夫・周瑜への想いもまた、静かに息づいていた。
(周瑜様…どうか、孫策様を、そしてこの子を守ってください…。)
彼女は、ただただ、この子が生きていく未来が、平和で穏やかなものであることを願わずにはいられなかった。隣に座る姉・大喬の存在が、今は何よりも心強い支えだった。
その夜、襄陽城内の至る所で、人々はそれぞれの思いを胸に、運命の朝を待っていた。
周瑜の後を継ぎ、軍師筆頭として大軍の戦略を担う魯粛は、その重責に身を引き締めながらも、冷静に最終確認に余念がない。
徐庶、龐統、法正、陸遜ら軍師たちも、自らの知略が戦場で花開くことを信じ、最後の推敲を重ねていた。
練兵場や宿舎では、甘寧、太史慈、周泰、呂蒙、黄忠、魏延、そして新たに参陣する馬超ら猛将たちが、愛用の武具を磨き、昂る闘志を静かに燃やしていた。
誰もが、この一戦が中華の歴史を塗り替える、天下分け目の決戦になると信じていた。
留守を預かる孫権は、兄の武運を祈りつつ、広大な領土の統治と後方支援に万全を期すことを改めて誓っていた。
孫尚香は、姉・大喬と連携し、「水月」を率いて情報戦の最前線に立つ覚悟を決めていた。
襄陽の夜は、静かに、そして深く更けていく。
父の夢、友との誓い、愛する者への想い、覇業への渇望、そして未来への祈り…。様々な感情が月明かりの下で交錯する。
孫呉は、その持てる力の全てを結集し、今、まさに北の巨人・曹操へと挑みかかろうとしていた。
中華の歴史が、新たな一ページを開くであろう大戦の幕は、もう間もなく上がろうとしていた。




