第27話、二枚舌と呉魏の暗黙
孫呉が周瑜の死という痛手を乗り越え、孫策の下で再び結束を固めつつあった頃。
西の益州では、新たな支配者となった劉備とその軍師・諸葛亮が、次なる策謀を巡らせていた。
益州という豊かな地を手に入れたとはいえ、その支配基盤はまだ脆弱であり、国力・兵力ともに、江東・荊州を合わせた孫策や、中原で覇権を確立しつつある曹操には遠く及ばない。
この二強に挟まれた状況は、彼らにとって極めて危険であった。
「このままでは、いずれ孫策か曹操、あるいは両方から攻め滅ぼされるは必定。先手を打ち、彼らを互いに争わせるしかありませぬ。」
諸葛亮は、劉備に進言した。彼の胸中には、既に大胆にして狡猾な策が練り上げられていた。
まず、諸葛亮は能弁な使者を北の許都へ送った。曹操に対しては、最大限の敬意を払う言葉と共に、こう申し送らせた。
「曹操様におかれましては、漢室をお支えになり、天下に威光を轟かせておられますこと、誠に慶賀の至りに存じます。しかしながら、江東の孫策は、父祖の地を越えて荊州をも併呑し、今や長江一帯に覇を唱え、増長すること甚だしく、いずれ必ずや貴方様の天下統一の妨げとなりましょう。我が主・劉備は、漢室の末裔としてこの国賊の振る舞いを深く憂い、曹操様と力を合わせ、共に孫策を討ち、天下の安寧を取り戻すことを切に願っております。」
それは、曹操の自尊心をくすぐりつつ、共通の敵として孫策を討つことを提案する、巧妙な誘いであった。
そして、ほぼ時を同じくして、別の使者が東の襄陽へと送られた。孫策に対しては、全く異なる内容が告げられた。
「孫策将軍。貴殿の武威が江東・荊州に輝くこと、誠に目覚ましい限り。しかし、北の曹操は漢の丞相の地位を悪用し、天子を傀儡として、天下簒奪の野心を露わにしております。このまま放置すれば、必ずや貴殿の覇業にも暗い影を落とすことになりましょう。我が主・劉備は、同じく漢室に連なる者として、この国賊の専横を座視できませぬ。ここは、貴殿と我が主が力を合わせ、共に北の曹操を討ち、漢室の安寧を取り戻すべきかと存じますが、いかがお考えでしょうか。」
こちらは、曹操を共通の敵として、孫呉との同盟を提案するものであった。
二枚の舌を巧みに使い分け、強大な二つの勢力を互いに争わせ、その隙に自らは益州の支配を固め、力を蓄える。そして、両者が疲弊したところを突いて、一気に漁夫の利を得る。それが、諸葛亮の描いた狡猾な策略の全貌であった。
しかし、孫策も大喬も、劉備からの甘言に心を動かされることはなかった。大喬が築き上げた情報網は、劉備がこれまでどのような手段で成り上がり、恩人を裏切り、人の土地を奪ってきたか、その「仁徳」の仮面の下にある本性を、克明に報告していた。
大喬はそれらの情報を整理し、夫と共有した。孫策自身も、益州での苦い敗北の経験から、劉備という男が決して信じるに足る人物ではないこと、そしてその背後で糸を引く諸葛亮という軍師の存在を、強く警戒していた。
「舌先三寸で世を渡り、恩を仇で返すような輩の言葉など、聞くに値せん!」
孫策は、劉備の使者を冷ややかに一喝し、追い返した。
一方、許都の曹操もまた、老獪な政治家であり、稀代の戦略家であった。劉備がかつて自分の庇護下から逃亡し、各地を転々としてきた経緯、そして益州簒奪の報せは、彼の耳にも届いていた。
劉備からの「共闘」の申し出を聞いた曹操は、その裏にある魂胆―自分と孫策を争わせ、その隙を突こうという浅はかな狙い―を即座に見抜いていた。
「ふん、劉備めが。相変わらず人を欺くことだけは達者よな。だが、その程度の小細工でこの曹操の眼を欺けると思うてか。」
曹操もまた、劉備の使者を鼻で笑い、追い返した。
孫策と曹操。
いずれは中華の覇権を賭けて激突するであろう、宿命のライバル。しかし、この時、二人の英雄は奇しくも同じ結論に達していた。
「今、最も警戒すべきは、そして野放しにしてはならぬのは、仁徳の仮面を被ったあの梟雄、劉備とその一党である。」
正式な同盟が結ばれたわけではない。
しかし、互いに劉備の提案を蹴ったという事実は、双方の間で暗黙の了解を生んだ。
「まずは、あの厄介な火種を抑え込む。」
両雄の利害は、対劉備という一点において、一時的に一致したのだ。
そして、二人はすぐに行動を起こした。
曹操は、自ら大軍を率いて漢中へと進軍。益州の北の玄関口にあたる戦略的要衝、五丈原に堂々と布陣し、成都の劉備に強い圧力をかけた。
時を同じくして、孫策も周瑜亡き後の軍を再編し、自ら精鋭を率いて長江を西進。荊州と益州の境、水陸交通の要衝である夷陵に陣を構え、東から劉備の喉元に刃を突きつける形となった。
劉備と諸葛亮が放った二枚舌の策謀は、皮肉にも、本来敵対するはずの二大巨頭を、対劉備という一点で連携させるという、全く逆の結果を招いた。
北の五丈原には曹操、東の夷陵には孫策。
益州を手に入れたばかりの劉備は、突如として、二つの強大な勢力から二方面を挟撃されるという、絶体絶命の窮地に立たされたのである。
果たして、この新たな対峙は、どのような火花を散らすのか。それとも、睨み合いのまま、別の局面へと移行するのか。
天下の形勢は、三者の思惑が複雑に絡み合いながら、再び大きく動き出そうとしていた。




