第26話、再生への誓い
小喬の出産から数日が経ち、赤子の健やかな泣き声は、重く沈んでいた襄陽の屋敷に、少しずつ、確かな生命の息吹をもたらしていた。
周瑜を失い、覇業の夢は頓挫し、そして自らの過ちによって最も大切な人を傷つけてしまった孫策。
失意の底にあった彼だったが、腕に抱いた我が子の温もりと重みが彼の心を揺さぶり、眠っていた闘志を呼び覚ました。この子のために、そして愛する者たちのために、自分は再び立ち上がらねばならない。
まず、為すべきことは一つだった。
孫策は、意を決して大喬の部屋を訪れた。ここ数日、まともに顔を合わせることもできずにいた妻の前に、彼は深く、深く頭を下げた。
「大喬……すまなかった。俺は…取り返しのつかない過ちを犯した。お前と、そして天にいる周瑜を裏切ってしまった。どんな言葉で詫びても、許されることではないと分かっている。だが…」
彼は顔を上げ、憔悴しながらも、強い意志を宿した瞳で大喬を見つめた。
「俺は、もう一度立ち上がりたい。この子のために、この孫呉のために、そして…叶うならば、もう一度、お前と共に未来を歩みたい。どうか…もう一度だけ、俺を信じ、力を貸してはくれまいか。」
大喬は、静かに夫の言葉を聞いていた。心の傷は、まだ生々しく痛む。裏切られたという事実は、決して消えることはない。
しかし、目の前で頭を下げ、必死に未来へ向かおうとしている夫の姿、そして小喬の腕の中で眠る赤子の存在、周瑜の最期の言葉…それら全てが、彼女の中で複雑に絡み合い、一つの答えを導き出していた。
(この痛みも、苦しみも、全て飲み込んで、それでも前に進むこと。周瑜様…これが、貴方の望まれたことなのですね…。)
彼女は深く息をつき、そして静かに、しかしはっきりと答えた。
「…孫策様。許す、許さないという言葉で、過去が消えるわけではありません。私にも、まだ時間が必要です。ですが…貴方様が立ち上がり、前へ進もうとされるのなら、私がお支えしない理由がどこにありましょう。妻として、この孫呉に生きる者として、そして…あの子の未来を守るためにも、私もまた、共に歩む覚悟はできております。」
それは、完全な許しや和解ではなかったかもしれない。しかし、凍てついていた二人の関係が、再び未来へ向けて動き出すための、確かにして力強い第一歩となった。
この対話を経て、孫策は力強く政務へと復帰した。まず彼は、自身が不在の間、見事に国政を代行した弟・孫権の労をねぎらい、深く感謝した。
そして、改めて自身が孫呉の当主であることを内外に示し、停滞していた国事を再び動かし始めた。
孫権は兄の復活を心から喜び、「これからは兄上が軍事に専念なされませ。内政・外交は、この弟が全力でお支えいたします。」と申し出、兄を補佐する体制を整えた。
周瑜亡き後の軍務・戦略の中核は、大局観に優れる魯粛が担うこととなり、張昭・張紘、諸葛瑾らが内政を盤石にする。
甘寧、太史慈、周泰、黄忠といった勇将たちも、主君の復活と新たな目標に闘志を燃やし、陸遜、徐庶、龐統といった若き才能も、新体制の下でその能力を発揮する場を得ていく。
周瑜という大黒柱を失った痛手は大きいが、孫呉は新たな陣容で、力強く再出発を果たすことになった。
大喬もまた、自らの活動を本格的に再開させていた。孫尚香らが活発に集めてくる情報を書斎で冷静に分析し、整理していく。
最大の脅威となった劉備・諸葛亮の動向、依然として油断ならぬ益州の情勢、そして力を蓄え続ける北の巨人・曹操の動き…。
彼女は、孫尚香と緊密に連携を取りながら、時には孫権や魯粛とも(周瑜との関係のように、互いの立場を理解し、暗黙の了解の下で)必要な情報を共有し、孫呉にとって不可欠な「目」と「耳」としての役割を、より深く、広く果たし始めていた。
小喬は、母としての日々を送っていた。
屋敷の内外から聞こえてくる心無い批判の声に傷つきながらも、腕の中の我が子―孫策と相談し、「孫紹」と名付けられた―の寝顔を見ていると、不思議と力が湧いてくるようだった。
彼女は、姉である大喬とも、少しずつだが、言葉を交わせるようになっていた。
まだぎこちなさは残る。しかし、互いを気遣い、この苦難を共に乗り越えようとする気持ちは確かに通い合っていた。
孫策は、政務への復帰と共に、早速、孫権、魯粛、そして徐庶、龐統ら軍師たちを集め、今後の孫呉が進むべき道について議論を開始した。
「益州は劉備に奪われた。周瑜が描いた天下二分の計は、大きな修正を迫られている。我々は今、どう動くべきか? 劉備に奪われた益州へ、再び兵を向けるべきか? それとも、まずは荊州と江東の守りを盤石にし、国力の回復を待つべきか? あるいは、虎視眈々と力を蓄える北の曹操への備えを、最優先とすべきか…?」
それぞれの立場から、活発な意見が交わされる。結論がすぐに出るものではない。
しかし、そこには、悲劇を乗り越え、再び未来へ向かって動き出した孫呉の確かな鼓動があった。
深い傷を負いながらも、孫策は再び立ち上がった。大喬は、複雑な想いを抱えながらも、夫と共に歩むことを決意した。小喬は、母として強く生きようとしている。そして、孫権、孫尚香という若い力が、新たな希望の光となっている。
失われたものの大きさは計り知れない。しかし、彼らは決して立ち止まらない。
劉備、そして曹操という強大な敵を前に、孫呉の新たな挑戦が、今、確かに始まろうとしていた。




