第25話、秋風に乗る産声
周瑜の死、益州での敗退、そして孫策、大喬、小喬の間に横たわる、言葉にできない重い秘密…。
襄陽の空は鉛色に曇り、孫呉全体が深い停滞の淵に沈んでいるかのようだった。
英雄は酒に慰めを求め、妻たちはそれぞれの胸に癒えぬ傷と罪悪感を抱え、互いに距離を置いたまま、ただ時間だけが過ぎていく。
誰もが「このままではいけない。」と分かっていながら、その重苦しい空気を打ち破るきっかけを見つけられずにいた。
しかし、変化の兆しは、それぞれの場所で静かに、確実に生まれ始めていた。
失意の底にいた孫策は、実務を代行する弟・孫権の叱咤と現実的な手腕に支えられ、少しずつ己を取り戻そうとしていた。複雑な政は当面、信頼する弟に任せ、彼は自らの原点である練兵場へと足を運ぶ回数を増やした。
一心不乱に戟を振るう。武具のぶつかり合う音、兵たちの熱気。その中に身を置くことで、彼の心に燻っていた覇気は、わずかずつだが再び燃え上がり始めていた。
大喬もまた、深い悲しみと衝撃の中で、自分の役割を見出そうとしていた。夫と妹の関係を知ってしまった心の傷は、まだ生々しく痛む。
しかし、孫尚香が義姉に代わって懸命に諜報部隊を動かし、情報を集めている姿を見て、自分もまた立ち止まってはいられないと感じていた。
彼女は書斎に籠り、尚香たちが集めてくる膨大な情報―膠着する益州方面の劉備軍の動向、北の曹操の勢力拡大、そして未だ内部で燻る不穏分子の気配―を冷静に読み解き、分析することに没頭した。それが今、自分が夫のために、そして孫呉のためにできる、最善のことだと信じて。
そして、最も大きな変化を迎えようとしていたのは、小喬だった。
周瑜の屋敷に閉じこもり、涙に明け暮れていた彼女だったが、自身の内に宿る新しい命の存在が、彼女に生きる理由を与えていた。
この子のためにも、強くならなければ。
いつまでも過去に囚われていてはいけない。
彼女は侍女を伴い、お腹の子に語りかけるように、少しずつ屋敷の外を散策するようになった。
秋の柔らかな日差し、色づき始めた木々の葉、街の喧騒。外の世界に触れることで、彼女の心にも、未来への小さな希望の光が灯り始めていた。
そんなある日、襄陽の空がどこまでも高く澄み渡った、秋たけなわの頃。
長い陣痛の苦しみを乗り越え、小喬はついに元気な男の子を出産した。屋敷中に響き渡る力強い産声は、このところ沈み込んでいた人々の心に、久しぶりの明るい響きをもたらした。
報せを受けた孫策は、練兵場から取るものも取りあえず駆けつけた。
産後の疲労の中にありながらも、我が子を胸に抱き、穏やかな微笑みを浮かべる小喬の姿。そして、産着に包まれ、すやすやと眠る小さな、小さな赤子。
孫策は、震える手で、その赤子をそっと抱き上げた。温かく、柔らかく、そしてずっしりと重い生命の感触。この子の父親は、紛れもなく自分なのだ。その事実が、彼の心を激しく揺さぶった。
(…この子のために…俺は、立ち上がらねばならん…!)
周瑜への、そして大喬への罪悪感は、決して消えることはないだろう。だが、この子の未来を守る責任が、自分にはある。この孫呉を、ここで終わらせるわけには断じていかない。
そのためには、まず、自分自身の弱さと罪に、そして妻である大喬と、真正面から向き合わねばならない。
孫策は、腕の中の小さな命を見つめながら、固く、固く決意した。
赤子の誕生は、大喬の心にも静かな変化をもたらしていた。
母となり、以前とは違う凛とした強さを見せるようになった妹の姿。そして、その腕の中で無心に眠る赤子の顔。それらを見ているうちに、周瑜が最期に託した言葉の意味が、少しずつ腑に落ちてくるような気がした。
(孫策様と小喬のこと…)
それは、単に二人の身を案じるだけでなく、この複雑にもつれてしまった関係の中で、彼らが、そしてこの子が未来へ向かって歩み出すための道を、自分が切り拓くべきだという意味だったのかもしれない。
大喬もまた、過去の痛みを受け入れ、前へと進む決意を静かに固めた。
そして小喬もまた、腕の中の我が子を見つめながら、母としての誓いを立てていた。
この子は、決して「罪の子」などではない。
この子の未来には、希望の光だけを照らしてあげたい。そのためには、自分が強くならなければ。
過去の過ちから目を背けず、しかし未来を見据えて、この子に誇れる母とならなければ。
孫策の嫡男(その立場は複雑ではあったが)の誕生は、沈滞していた孫呉にとって久しぶりの慶事となり、襄陽城下は祝賀ムードに包まれた。
しかし、その明るい光の裏では、「姉の夫を寝取るなど、恥知らずな。」「夫の喪も明けぬうちに、主君の子を身籠るとは、まさに傾国の魔女よ。」といった、小喬に対する辛辣な批判の声も囁かれていた。
小喬は、その痛烈な言葉を、歯を食いしばって受け止めた。涙は見せなかった。自分の犯した過ちの代償なのだ。逃げることはできない。
しかし、ただ罰を受けるだけではない。
この子の母として、そしていずれ孫呉を担うかもしれない若君の母として、これからの自分の生き方、行動そのもので、周囲の信頼を勝ち取っていくしかない。
そう決意した彼女の横顔には、もはやかつての儚げな少女の面影はなく、どんな困難にも立ち向かおうとする、母としての、そして一人の女性としての、しなやかな強さが確かに宿っていた。
秋風が、新しい生命の誕生と、それぞれの再生への誓いを、襄陽の空へと運び去っていく。
深い傷を負いながらも、彼らは再び立ち上がろうとしていた。孫呉の未来は、まだ決して明るいとは言えない。しかし、最も暗い夜が明けるように、確かな希望の光が、再び差し込もうとしていた。




