第16話、昼下がりの騒動
刺客たちの襲撃という緊迫した出来事から数日が過ぎ、江東の地には再び穏やかな日常が戻ったかのように見えた。
しかし、大喬の心には、あの日の出来事が深い余韻を残していた。
孫尚香の放った一本の矢が夫の命を救ったという事実、そしてその行動の裏にあった孫一族の凄まじいまでの覚悟。
自分もまた、彼らと同じ覚悟を持って夫を支えなければならないと決意を新たにする一方で、秘密裏に進める活動がいつか露見するのではないかという、新たな不安も芽生え始めていた。
そんな思いを抱えて過ごしていたある日の午後、予期せぬ訪問者が屋敷を訪れた。
「周瑜様がお見えでございます。」
侍女の言葉に、大喬は僅かに眉をひそめた。
孫策は今日、軍の視察で城外へ出ており、夕刻まで戻らないはずだ。その時間に、周瑜が一人で訪ねてくるのは極めて珍しい。胸騒ぎを覚えながらも、大喬は平静を装い、客間へ通すよう命じた。
客間に現れた周瑜は、いつものように理知的で穏やかな佇まいだった。
しかし、その瞳の奥には、何かを見定めるような鋭い光が宿っていた。当たり障りのない時候の挨拶を交わした後、周瑜は不意に懐から一本の矢を取り出し、そっと卓上に置いた。
「……!」
大喬は息を呑んだ。日差しを受けて鈍く光るそれは、紛れもなく、あの日、孫尚香が放った矢だった。なぜ、周瑜がこれを…。
「先日の遠乗りの際、我らの危機を知らせてくれた矢です。」
周瑜の声は静かだった。
「刺客どもの矢とは、作りが異なる。尚香様が好まれる矢に、よく似ている。」
彼の視線が、卓上の矢から大喬へと移される。
その静かな眼差しは、全てを見通しているかのようだ。大喬は息を呑み、言葉を失う。
周瑜は、彼女の動揺を見て取ると、それ以上何も言わず、ただ静かに矢を懐に戻した。そして、立ち上がり際に、一言だけ、低い声で告げた。
「……あまり、ご無理はなさらないように。」
その声には、責める響きはなく、むしろ深い気遣いが滲んでいた。彼がこのことを孫策に告げることはないだろう。これは、周瑜と自分だけの、秘密の始まりなのかもしれない。
大喬は、ただ黙って頷くことしかできなかった。
「では、失礼する。」
周瑜は静かに会釈し、部屋を出て行った。大喬は、まだ動揺が収まらないまま、彼を玄関まで見送りに出た。
門を開け、周瑜がまさに一歩踏み出そうとした、その時だった。
「姉様ー! 美味しいお菓子が手に入りましたの! 一緒にいかが……、あら?」
通りの向こうから、可愛らしい巾着を手に、小喬が笑顔で歩いてくるのが見えた。
しかし、その笑顔はすぐに凍り付いた。
門からまさに今出てこようとしている夫、周瑜。そして、それを見送る姉、大喬。姉の表情は、どこか蒼白で、動揺しているように見える…。
(まあ…! なぜ、姉様の屋敷から、周瑜様がお一人で…? しかも、こんな時間に…? そ、それに、姉様のあの表情は…!?)
小喬の純粋な心は、瞬時にありえない方向へと駆け巡ってしまった。次の瞬間、彼女の手から、ぽろり、と巾着が滑り落ちた。色とりどりの落雁が、ぱらぱらと乾いた音を立てて地面に転がる。
「小喬!?」
「小喬、どうしたのだ!?」
周瑜と大喬は、小喬のただならぬ様子に驚き、慌てて駆け寄ろうとした。しかし、その行動が、かえって彼女の疑念に火を注ぐ結果となってしまう。
「う…うわぁぁぁぁん!」
突然、小喬は堰を切ったように泣き出した。大きな瞳から、ぽろぽろと涙が溢れ落ちる。
「ひどいです! あんまりですわ! 姉様も…周瑜様も…! わたくしに隠れて、こ、こんな白昼堂々…逢瀬を…! うわぁぁぁん!」
「ち、違うのだ、小喬!」
「誤解です、小喬!」
周瑜と大喬は必死に弁解しようとするが、泣きじゃくる妹(妻)には全く届かない。
周瑜は普段の冷静さを失い、珍しく狼狽えている。大喬もまた、どう説明すればいいのか分からず、顔面蒼白のまま立ち尽くすばかり。
まさにその時、最悪のタイミングで、張りのある声が響いた。
「ん? 何事だ、騒々しい。小喬ではないか。どうしたのだ、そんなに泣いて。」
視察から予定より早く戻ったのか、孫策が馬を降り、怪訝な顔でこちらへ歩いてくるところだった。
兄の姿を見つけた小喬は、待ってましたとばかりに走り寄り、その逞しい胸に顔を埋めて泣きじゃくった。
「孫策義兄様ぁ! 聞い…聞いてください! うわぁぁん! 姉様が…! 姉様と、周瑜様が…! ひっく…ひっく…!」
嗚咽で言葉は途切れ途切れだったが、彼女が何を訴えようとしているかは、誰の目にも明らかだった。
孫策は、胸で泣きじゃくる妹と、顔面蒼白で凍り付いている妻、そして普段の沈着冷静ぶりは何処へやら、冷や汗を流して立ち尽くす親友の姿を、ゆっくりと、そして厳しい表情で見比べた。
「……一体、何があったというのだ?」
その低く抑えられた声には、困惑と、そして無視できない疑念の色が、確かに混じっていた。
穏やかだったはずの昼下がりは、一転して修羅場と化し、事態は思いもよらぬ方向へと転がり始めていた。




