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第14話、徳の光と深まる影

揚州全土をその手に収めた孫策。


しかし、広大な領地と多様な民を束ねるという新たな課題は、若き覇者の肩に重くのしかかっていた。

戦には連戦連勝の彼も、複雑な統治の術にはまだ不慣れな部分があり、その隙間を埋めるかのように、一つの噂が彼の耳に届くようになった。


「于吉」と名乗る道士が、江東各地を巡り歩き、不思議な力で病人を癒し、貧しい者には惜しみなく施しを与えているという。

民衆は彼を生き神のように崇め、その名は急速に広まっていた。


「民の心を掴む、か…。」孫策は眉をひそめた。

その力が、純粋な善意から来るものならば良い。


しかし、もしその裏に何らかの政治的な意図が隠されていたとしたら? あるいは、周瑜や大喬が常に警戒している、水面下で蠢く不穏な輩と繋がっていたとしたら?

民衆の支持を背景にした動きは、時として為政者にとって大きな脅威となり得る。


「于吉とやらを、皖城へ呼び出せ。」


孫策は命じた。

側近の中には、「そのような怪しげな妖術使いは、人心を惑わす元。即刻、斬り捨てるべきです。」と進言する者も少なくなかった。



数日後、于吉は孫策の前に姿を現した。

粗末な道士服を纏い、齢は五十を超えているだろうか、しかしその眼差しは澄み切り、穏やかな雰囲気を漂わせている。

孫策は、上座から鋭い視線を投げかけ、詰問した。


「貴公が于吉か。近頃、あちこちで民を集め、人心を惑わしていると聞く。一体、何を企んでおる? 我が江東の秩序を乱そうという魂胆か?」


その威圧にも、于吉は少しも臆することなく、静かに首を横に振った。


「恐れながら申し上げます。私はただ、殿の陽光が未だ届かぬ陰で、病に苦しみ、飢えに喘ぐ民の、ささやかな助けとなろうとしているに過ぎませぬ。薬を与え、食を分かち、心の安らぎを説く。これは、殿の政道を乱すものではなく、むしろ補わせていただくものと心得ております。もしご迷惑であれば、即刻、この地を立ち去りましょう。」


その言葉は、丁寧でありながら、暗に孫策の統治が行き届いていない現実を指摘していた。


以前の孫策であれば、この返答に激昂したかもしれない。だが、彼は変わっていた。大喬との生活の中で、人の心の複雑さ、力だけでは動かせぬものの存在を学んでいた。


彼は于吉の言葉を冷静に受け止め、そして自省した。確かに、戦に明け暮れ、領土を広げることに邁進してきたが、その足元で苦しむ民一人ひとりの声に、十分に耳を傾けてこられただろうか?


孫策は椅子から立ち上がると、于吉の前に進み出て、意外にも深く頭を下げた。


「いや、貴公の言う通りかもしれん。我が政にも、まだ至らぬ点が多いのだろう。貴公が我が手の届かぬ民を救ってくれているというのなら、それは感謝こそすれ、咎めるべきことではなかった。疑ったことを、詫びる。」


その予想外の対応に、于吉は僅かに目を見開いたが、すぐに穏やかな微笑みを浮かべた。


「殿が民を深く思われるお心、しかと伝わりました。恐れながら、殿には今、その広大な版図を確かなものとし、民に更なる安寧をもたらすための知恵が必要かと存じます。もしお許しいただけるなら、この于吉、二人の賢人をご紹介しとうございます。」


「ほう、賢人とな?」


「はい。張昭殿、張紘殿と申される方々で、共に乱世を憂い、民を思う心篤く、経世済民の才に長けた人物。必ずや、殿の覇業の大きな助けとなりましょう。」


孫策は、于吉の眼に曇りがないことを見て取り、その推挙を受け入れた。すぐに張昭・張紘(二張)は召し出され、孫策に仕えることになった。


二人はまさに于吉の言葉通りの逸材だった。

法制度の整備、公正な人材登用、安定した財政基盤の構築など、彼らの知識と実務能力は、急速な領土拡大によって生じていた統治の歪みを是正し、孫策の支配体制をより強固なものへと変えていく原動力となった。


孫策が于吉のような人物さえも受け入れ、さらに二張という有能な文官を得て内政の安定化を図っている。

その事実は、水面下で反旗の機会を窺っていた者たちにとって、大きな焦りを生じさせていた。

古くからの豪族達、劉繇や王朗、許貢の残党等が、密かに連絡を取り合い、一つの流れとなりつつあった。


「このままでは、孫策の支配は盤石となり、我々の居場所はなくなる。」


追い詰められた彼らは、より直接的で、より危険な手段を講じることを決意し始めていた。その不穏で殺気立った空気の変化を、大喬の張り巡らせた情報網は、確かに捉え始めていた。


江東に差す光は、日増しに強くなっている。

しかし、その光が強ければ強いほど、影もまた、その濃さを増していく。

真の脅威は、より巧妙に、より深く潜行し、確実にその牙を研ぎ澄ませていた。

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