第13話、水面に写る月
揚州全土はついに孫策の旗の下に統一され、江東の覇者の名は、揺るぎないものとなった。
皖城への凱旋は、熱狂的な歓迎に包まれた。
道々には勝利を祝う民衆が溢れ、孫策を讃える声が響き渡る。孫策は馬上から誇らしげにその声に応え、屋敷の門前で待つ大喬の姿を見つけると、馬から飛び降りて駆け寄った。
「大喬、ただいま戻った。 約束通り、勝利を手にしてきたぞ。」
「お帰りなさいませ、孫策様。 ご無事で…本当によろしゅうございました。」
久しぶりに間近で見る夫の顔には、戦の疲れと共に、達成感と自信がみなぎっていた。
再会を喜び合う二人の姿に、周囲の者たちも温かい拍手を送る。
しかし、華やかな凱旋の喧騒の裏で、大喬の心は完全には晴れていなかった。孫策不在の間に掴んだ、不穏分子たちの活動。
彼らは、揚州統一という孫策の輝かしい功績の陰で、息を潜め、次なる機会を窺っているに違いない。
これまでの受動的な情報収集だけでは、いつか必ず後手に回る。夫が天下への道を歩むためには、より能動的に情報を掴み、迫りくる危機に備え、場合によっては自分たちの手でそれを排除する力が必要だ。
大喬は、そう決意していた。
数日後、大喬は屋敷の奥深く、信頼できる侍女たちだけを密かに集めた。彼女は普段の穏やかな表情とは違う、覚悟を決めた眼差しで語り始めた。
「皆に、頼みたいことがあります。ご存知の通り、孫策様は揚州を統一されました。しかし、この江東には、未だ孫策様を快く思わぬ者たちが潜んでいます。彼らは、いつ、どのような形で牙を剥くか分かりません。」
侍女たちの顔に緊張が走る。
「そこで、私たちは、私たち自身の手で、この屋敷を、そして孫策様をお守りするための力を持ちたいのです。表向きは、殿方が戦に出ている間、私たち女性の手で家を守るための備えとします。しかし、真の目的は、江東に潜む不穏な影を誰よりも早く察知し、孫策様の覇業を陰から支えること。そのための、目となり、耳となり、時には…影となる部隊を組織したいのです。」
それは前例のない大胆な提案だった。
しかし大喬の真摯な言葉と、夫を、そしてこの地を守りたいという強い意志は、侍女たちの心を打った。
彼女たちは迷うことなく大喬への忠誠を誓い、その計画への参加を表明した。噂は静かに広まり、侍女だけでなく、志を同じくする武将の妻や娘たちの中からも、自ら協力を申し出る者が現れ始めた。
その中で、ひときわ威勢の良い声があった。
「義姉上! そのお役目、ぜひ私にもやらせてください!」
声の主は、孫策の実妹である孫尚香だった。
彼女は真っ直ぐな瞳で大喬を見つめる。
「兄上のため、この江東のためになることなら、私も力を尽くしたいのです! 女だからとただ守られているだけでは我慢なりません!」
その意気込みと、兄を思う純粋な気持ちに、大喬は微笑んで頷いた。
「ええ、尚香様。貴女のご協力は、私たちにとっても心強い。ぜひ、お願いします。」
こうして、様々な出自と想いを持つ女性たちが、大喬の下に集い始めた。
部隊の組織化と並行し、大喬自身も新たな挑戦を始めていた。彼女は、自らも密かに訓練を開始した。剣の素振り、体捌き、そして気配を殺して闇に紛れる隠形の術…。
慣れない動きに筋肉は悲鳴を上げ、何度も失敗を繰り返す。しかし、愛する夫の背中を守りたい、自分の手で未来を切り拓きたいという強い意志が、彼女の心を支え、身体を突き動かしていた。
揚州統一の祝賀に沸く江東。
その輝かしい光の陰で、一つの密やかな力が産声を上げた。
大喬は、その諜報部隊に水月と名を付けた。
彼女は、より強く、より確かな力をもって、夫の覇道を支える準備を整え始めた。




