第11話、内なる支え
孫策が呉郡の平定から帰り、しばらくした頃。
皖城の街は復興もすっかり整い、かつて以上の賑わいを見せていた。
孫策は広大になった領地の統治と、次なる戦への備えに忙殺される日々を送っており、屋敷に戻るのは夜更けになることも少なくなかった。
大喬はそんな夫を気遣いながら、奥向きの差配を滞りなくこなし、妻としての務めを果たしていた。
そして同時に、彼女は自身の役割を静かに模索し始めていた。夫が安心して覇道を進めるよう、その足元を脅かすかもしれぬ見えざる脅威から彼を守る。
そのために、彼女はまず、夫を支える重臣たちの「内」を知ることから始めた。
程普や、黄蓋といった父の代からの宿将や、新たに孫策に仕えることになった将たちの夫人たちを招き、時に自ら訪ねて、丁寧に相談に乗った。
かつての孫堅の頃との違いや、新たに仕えることになった者達の戸惑い、彼女達は様々な思いを抱えていた。
他にも、城下の物価の話、子供たちの教育の話、そして遠方の親戚から聞いたという他国の噂話…。
他愛のない会話に大喬は注意深く耳を傾け、今の孫呉が抱える小さな歪や、民衆の暮らしぶり、そして外部の空気を感じ取ろうとしていた。
彼女は柔らかな笑顔で会話に応じながらも、得られた情報を一つ一つ記憶に留め、夫が直面しているであろう統治の難しさに思いを馳せる。
(孫策様は、戦場だけでなく、このような内なる問題にも心を砕いておられるのね…。私が集める情報が、少しでもそのお役に立てれば良いのだけれど…。)
ある日、孫策が疲れ切った表情で屋敷に戻ってきた。
彼は夕餉を取りながらも、時折難しい顔で考え事をしているようだった。その眉間に刻まれた皺に、彼が背負うものの重さを垣間見る。
「何か、お悩みでございますか?」
大喬が静かに問いかけると、孫策は一瞬ためらう素振りを見せたが、やがて諦めたように小さく息をついた。
「いや、少しな。新しく加わった者たちと、古くから俺に仕えてくれている者たちの間で、どうも軋轢が生じているらしくてな…。人の和を保つというのは、戦場で敵を破るより、骨が折れるものだ。」
それは以前ならば決して彼女の前では見せなかったであろう、為政者としての苦悩の吐露だった。大喬は彼の言葉を静かに受け止め、頷いた。
「それぞれの立場、それぞれの言い分がおありなのでしょうね。どちらか一方だけが正しいということは、なかなかないものですわ。」
彼女はただ同情するだけではなかった。
妻として、この屋敷の奥向きを預かるようになってから、様々な声が耳に入るようになっていた。
「実は先日、程普殿の奥方とお話しする機会がございまして…少し伺ったのですが、銭糧の管理をされている呂範殿のやり方に、少し戸惑いを感じておられる方が少なくないとか。決して呂範殿を非難するわけではなく、ただ、あまりに急な変化に、ついていけない、と。」
孫策は、大喬がそのような具体的な情報を掴んでいることに、僅かに驚きの色を見せた。
しかし、彼女の言葉が的を射ていると感じたのだろう、頭ごなしに否定することはせず、真剣な表情で考え込み始めた。
「ふむ。やはり、そうか。呂範は有能で清廉だが、それ故に少し厳格すぎるところがあるのかもしれん。現場の者たちの心情を、もう少し慮る必要がありそうだな。」
彼は、大喬の顔を見て、ふっと口元を緩めた。
「ありがとう、大喬。助かった。少し、呂範とも話してみよう。」
その言葉と表情に、大喬は胸の奥が温かくなるのを感じた。彼が自分の言葉に耳を傾け、頼りにしてくれている。それが、何より嬉しかった。
翌日、孫策が政務へと出かけていくと、屋敷の奥は、大喬を中心としたもう一つの世界が動き出す。
彼女は信頼する侍女頭を呼び寄せ、昨日までに集まった情報を整理し、新たな指示を与えた。
そして、また別の日。
周瑜と小喬が連れ立って孫策の屋敷を訪れた。
柔らかな日差しの中、庭先に現れた妹の姿に、大喬は思わず目を細めた。
淡い水色の衣に身を包んだ小喬は、以前の怯えたような影をすっかり消し去り、その表情は明るく、頬には健康的な血の気が差している。
隣に立つ周瑜の穏やかな眼差しが、彼女の変化を物語っているようだった。
「姉様!」
「小喬、よく来てくれましたね。周瑜様も、ようこそ。」
大喬は温かく二人を迎え入れ、広間へと案内した。やがて孫策も現れ、四人は久しぶりに顔を合わせ、華やかな食卓を囲んだ。
最初はどこか遠慮がちな空気が漂っていたが、それもすぐに解けていった。
孫策と周瑜は幼い頃からの親友らしく、互いに軽口を叩き合いながらも、その言葉の端々には深い信頼が滲み出ている。
姉妹もまた、穏やかな笑顔を交わし、互いの近況を語り合った。美味しい料理と芳醇な酒が、場の雰囲気をさらに和やかにしていく。
食事が一段落すると、孫策が周瑜を誘い、別室へと席を移した。おそらく、込み入った政務や軍略の話をするのだろう。
残された大喬と小喬は、侍女に茶を用意させ、庭園を散策することにした。
柔らかな風が頬を撫でる中、小喬は少し恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに口を開いた。
「姉様、聞いてください。周瑜様は…本当に優しい方ですの。いつも私のことを気遣ってくださって、難しい書物の話を分かりやすく教えてくださったり、時には…そう、琴も。私が少しでも上達すると、とても喜んでくださるのです。」
その頬はほんのりと赤く染まり、瞳は幸せそうに輝いている。
「正直、最初はとても怖かったのですけれど…今は、あの方のそばにいられて…本当に、幸せです。」
妹の心からの言葉に、大喬の胸も温かくなる。
「そう…良かったわね、小喬。貴女が幸せそうで、姉としてこれほど嬉しいことはないわ。」
「姉様は? 孫策様とは…いかがですか?」
心配そうに尋ねる妹に、大喬は微笑んで答えた。
「ええ、私も…。孫策様は、皆が言うような、ただ猛々しいだけの方ではないの。とても…不器用だけれど、誠実で、温かい方よ。少しずつだけれど、夫婦としての絆が生まれているのを感じています。」
孫策への深い慈しみや、彼を支えたいという想い。
密かに行っている情報収集のことまでは、まだ妹に話すことはできなかったが、嘘偽りのない気持ちだった。
やがて、日が傾き始め、四人は再び広間で顔を合わせた。話題は自然と、最近の江東の情勢へと移っていく。
孫策が今後の展望を語る中で、周瑜がふと、表情を曇らせて口を挟んだ。
「孫策、少し気になることがある。確かな証があるわけではないのだが…このところ、我々に不満を持つ一部の古い豪族や、劉繇の残党などが、密かに連絡を取り合っているようだと、不確かな噂だが耳に入ってきているのだ。」
孫策はその言葉を意に介さないように、笑って手を振った。
「ははは、周瑜、心配性だな。そのような輩が、今更何をできるというのだ。俺がいる限り、江東は盤石よ。」
その自信に満ちた声とは裏腹に、大喬の胸には小さな棘が刺さったように感じられた。自分の「耳」にも、同様の断片的な情報は入ってきていたからだ。
穏やかな夫婦や友人、姉妹としての交流。
その裏側で進む統治の難しさ、そして水面下で蠢く不穏な影。
大喬は、愛する夫を支え、この掴みかけた平和を守るために、自らの「目」と「耳」をさらに研ぎ澄ませていかねばならないと、改めて強く心に誓うのだった。




