第10話、好敵手
孫策と大喬が夫婦の契りを結んでから、まだひと月も経たない、初々しい空気が皖城の屋敷に満ちていた頃。江東平定を目指す若き覇者の歩みは、止まることを知らなかった。
揚州刺史・劉繇こそ打ち破ったものの、その残党や、独立を保とうとする在地豪族たちの抵抗は依然として各地で続いていた。
次の目標は、それらの勢力が結集する呉郡であった。
「呉郡を制圧し、江東の東部を掌握する。」
孫策は、自ら軍を率いて出陣することを決断した。
出陣の朝。
大喬は、夫のために真新しい鎧の紐を結びながら、その指先が微かに震えるのを感じていた。
これが、夫を戦場へと送り出すということなのか。頭では理解していても、胸を締め付けるような不安と寂しさは隠せない。
無事に帰ってきてくれるだろうか。怪我はしないだろうか…。
「どうか、ご無事で…。」
思わず漏れたか細い声に、孫策は優しく振り返り、彼女の肩を抱いた。
「心配はいらぬ、大喬。呉郡太守の許貢など、物の数ではない。この孫策、すぐに奴らを蹴散らし、お前の元へ帰ってくる。安心してこの城を守っていてくれ。」
その力強い言葉と、自信に満ちた笑顔に、大喬は不安を心の奥へと押し込め、精一杯の笑顔で頷いた。
「はい、孫策様。信じてお待ちしております。ご武運を、心よりお祈り申し上げます。」
覇王の妻として、今はただ、強く夫を送り出すこと。それが自分の務めだと、彼女は言い聞かせた。
孫策軍の進撃は、まさに破竹の勢いであった。
周瑜の巧みな策略と、孫策自身の苛烈なまでの武勇の前に、呉郡の抵抗勢力は次々と打ち破られていく。
太守の許貢も、野戦で孫策軍に散々に打ち破られると、早々に城を捨てて逃亡してしまった。
呉郡の主要部は、戦闘らしい戦闘もないまま、あっけなく孫策の支配下に入った。
あまりにも早い決着。孫策は、勝利の喜びに浸る一方で、武人としてどこか物足りなさを感じていた。
彼は、周辺に潜むであろう敵残党の掃討と、呉郡の地理を自らの目で確かめるため、供の騎兵を数騎だけ連れて、自ら周辺の哨戒に出ることにした。
馬を進め、神亭と呼ばれる山の麓に差し掛かった時だった。前方から、砂塵を上げて単騎駆けしてくる一人の武将の姿が、孫策の目に留まった。
日に焼けた精悍な顔つき、立派な体躯、そして何よりも、全身から放たれる尋常ならざる武人の気配。
孫策は、その男に見覚えがあった。
(あれは…太史慈か!)
かつて敵対した劉繇軍にあって、その武勇が鳴り響いていた猛将。直接矛を交える機会は無かったが、劉繇が敗れた後も、彼は一部の兵を率いて抵抗を続けていると聞いていた。
太史慈もまた、孫策の姿を認めると、ぴたりと馬を止めた。その鋭い眼光が、孫策を射抜く。
二人の間には、言葉はなかった。ただ、互いの存在を認め合い、武人としての魂が共鳴し合うかのような、激しい火花が散る。
次の瞬間、どちらからともなく動いた。孫策は愛用の戟を、太史慈は得意とする弓、は背負ったまま刀を構えて、同時に馬を駆って正面から激突した。
ガキィィン!!
激しい金属音が、静かな丘陵に響き渡る。
互角。 孫策の、若さと覇気に裏打ちされた荒々しい猛攻。それに対し、太史慈は精妙かつ重厚な技で、巧みに受け流し、鋭い反撃を繰り出す。
馬上で繰り広げられる、息もつかせぬ一騎打ち。
単なる敵意や憎しみによる戦いではない。
互いの武を認め合った者同士が、その持てる力の全てをぶつけ合い、高め合っていくかのような、どこか清々しささえ感じさせる、真剣勝負であった。
孫策は心の底からこの戦いを楽しんでいた。
これほどの強者と渡り合える機会は、そう滅多にあるものではない。
どれほどの時間が流れたであろうか。互いの額には玉の汗が光り、呼吸も荒くなってきた。勝負は、まさにこれから佳境に入ろうかという、その時だった。
「孫策様! ご無事ですか!」
「太史慈殿! お助けに参りましたぞ!」
遠くから、双方の部下たちが、主の身を案じて慌てて駆けつけてくる声が聞こえた。その声に、二人は同時に武器を引き、互いに距離を取った。
「はっはっは! 見事な腕だ、太史慈! 劉繇殿がそなたを頼りとしていれば、或いは私が負けていたかもしれんな!」
孫策は、満足げな笑みを浮かべ、息を整えながら言った。
「どうだ? このまま俺と事を構えるか? それとも…俺の下に来る気はないか? お前ほどの男が、いつまでも浪々の身でいるのは惜しいと思うがな。」
太史慈は、馬上から孫策を真っ直ぐに見据え、にやりと笑った。
「孫策殿の武勇、そしてその器の大きさ、確かにこの目で見届けた。貴殿に仕えるというのも、あるいは悪くないかもしれぬな。…だが、今はまだその時ではない。また会おう、若様!」
彼は言い放つと、颯爽と馬首を返し、風のように去っていった。
孫策は、その後ろ姿を、名残惜しそうに、しかし期待に満ちた表情で見送った。
呉郡をほぼ平定し、太史慈という将来有望な好敵手との出会いにも心を躍らせた孫策は、意気揚々と拠点へと帰還した。
屋敷では、大喬が夫の無事な姿に安堵の涙を浮かべて出迎えた。
「お帰りなさいませ、孫策様! ご無事で…本当によかったです。」
孫策は、彼女の細い肩を抱き寄せ、その心配をかけたことを詫びながら、太史慈との一騎打ちの様子を、まるで少年のように楽しげに語って聞かせた。
そして、その数日後。
孫策の元へ、さらなる吉報が舞い込んだ。
かつて父・孫堅が最も信頼し、江東の虎の躍進を文字通りその身で支え続けた歴戦の宿将、程普と黄蓋が、孫策の元を訪れたのだ。
「若君の目覚ましいご活躍、遠くより拝見しておりました。我らも先代への恩義に報いるため、そして若君の覇業のお力となるべく、馳せ参じました!」
二人の宿将の言葉に、孫策は感極まった。
「程普殿、黄蓋殿。よくぞ参ってくださった!これほど心強いことはない。父上もきっとお喜びであろう!」
父の代からの忠臣たちの合流は、孫策の陣営に計り知れないほどの厚みと安定感をもたらした。
新妻・大喬を娶り、呉郡を平定し、太史慈という逸材と出会い、そして父の代からの宿将たちを得る。
孫策の覇業は公私ともに充実し、江東統一、そしてその先の未来へ向けてまた一歩踏み出した。
大喬もまた、夫の勢力が日増しに拡大していくのを目の当たりにし、覇王の妻としての自覚と覚悟を改めてその胸に深く刻むのだった。
この話の流れとは異なり、歴史で孫策が大喬と出会ったのは江東の平定がほとんど済んだ後です。
また、二人が共に過ごしたのは僅か4ヶ月ほどで、彼女の立場も正妻といったものではなかったようです。




