198 補佐官の手紙
ディランは手紙から顔を上げ、配達人へ静かに告げた。
「遠路、ご苦労だった」
低く、無駄のない声。
男は黙礼し、素早く馬首を返す。蹄が石を打つ音が、山道へと遠ざかっていった。
ディランの指先が、封を元に戻す。
わずかに、白くなる。
そのまま視線を巡らせ、隊商を見回っていたトーニオを呼び止めた。
草を踏みしめながら、にやにや顔の男がやってくる。新緑の匂いをまとった風が、その外套を揺らした。
「いや〜、山越えは毎度ひやひやするんだが、今回は助かるね。ポリクセニ様の計らいでファルカシュ兵がついてる。心強いもんだ」
ディランは短くうなずき、封筒を懐へ収める。
「この先、エゼルウートへ直接向かうなら、どの道が安全だ」
トーニオの笑みが消えた。
「……エゼルウート? ディルムラートへは行かないのか?」
「帝都へ帰れとの知らせだ」
その言葉に、ユーシャスはわずかに顔を伏せた。花の揺れる音だけが耳に残る。
「そうか……。残念だな」
トーニオは顎に手を当て、少し考える。
「山を越えた先にシャルペって町がある。そこから北西へ抜けると西回廊へ出られる」
「わかった。手を止めさせたな」
「気にするな」
軽く手を振り、トーニオは去る。
その背を見送りながら、ディランは目印の山の頂を見上げた。雲がゆっくりと流れ、小鳥の鳴き声が風に溶ける。
やがて、低く呼ぶ。
「ユーシャス……」
伏せていた彼女の顔が、ゆっくりと上がる。
視界の端に、孔雀色の瞳が映った。
「一緒に、エゼルウートへ来てくれないか」
「……え?」
言葉が追いつかない。
「エ、エゼルウート……ですか?」
「そうだ。東国人だということで、もしかしたら嫌な思いをさせるかもしれん。帝都は異国の人間に寛容にも偏狭にもなるところだ」
かつて母セクアは、帝都に現れた最初のエル・カルド人として注目を浴びた。
視線に囲まれ、噂に追われ、静かな暮らしは奪われた。
ユーシャスを同じ目に遭わせたくはない。
だが――。
「あの……ディルムラートへは?」
「フェルディナンド商会は、追手を排除できれば身元を引き受けると言っていた。だが今は、背後が見えん」
最初の襲撃者は倒した。
だが、糸を引く者がいる。
その正体に辿り着くには、帝都にいるジーンの力が必要だった。
手紙には、二つの内容。
一つは帰還の勧め。
そして追伸。
――『興味深いお客さんが一緒みたいだね。その東国のお嬢さんも連れておいで。楽しみにしているよ』
ディランは、ユーシャスの名を書いたことは一度もない。同行者がいるとも伝えていない。
それでも、あの補佐官は彼女の存在に辿り着いた。
帝都にいながら。
「エゼルウートには協力者がいる。……どうする?」
風が花を揺らす。
ユーシャスは目を閉じ、胸の奥であの“声”を思い出す。
――その手を離すでない。
ゆっくりと目を開いた。
「……行きます」
迷いのない声だった。
「宿に着いたら、サムエルとマルコにも話そう」
ディランが手を差し出す。
ユーシャスは、まっすぐその手を取り、立ち上がる。
指先が触れ合う。
ふたりは花の中を並んで歩き、馬車へ戻る。
風が、静かに吹いた。
ユーシャスは振り返り、目印の山の向こうへ続く白い峰を見上げる。
その気配が背中を優しく押した。
◇◇◇
夕暮れ。
山道を越え、隊商は小さな山宿へ辿り着いた。
石積みの建物は質素で部屋数も少ない。町の隊商宿とは比べものにならない。
客人であるディランたちと商会主ドナートが宿に入り、他の者たちは荷を囲んで野営することになっていた。
外ではファルカシュ兵が焚き火を囲み、火の粉が宵闇に散る。
大鍋をかき混ぜる女中の影が揺れていた。
「え……隊商を抜ける?」
マルコの大声が、狭い部屋に響く。
「しっ……声が大きい」
ディランが眉を寄せる。薄い壁の向こうには他の旅人の気配。
マルコは慌てて口を押さえた。
部屋には寝台が三つ。狭い空間を縫うように、サムエルがチェストを担いで入ってくる。
「サムエル。私とユーシャスはエゼルウートへ向かう。この先、シャルペで別れるつもりだ。お前とマルコは予定通りディルムラートへ行け」
サムエルは眉を寄せ、ユーシャスを指さし、首を振る。
マルコが訳す。
「ユーシャス様に、馬での移動は無理じゃないかって」
続けて、サムエルは親指で自分の胸を叩く。
「自分も行く、ですって」
「来てくれるのか?」
力強いうなずき。
ディランは小さく息を吐いた。
「なら、ディルムラートへは手紙を出す。……マルコは――」
「嫌です!」
即答だった。
「僕も一緒に行きます!」
「お前は見習いになるのだろう。帝都へ寄る余裕はない」
「でも……ユーリさんに『おふたりの世話をしなさい』って言われてます! ここで離れられません!」
「だめだ」
「嫌です!」
目に涙がにじむ。
その夜、マルコはふてくされたまま夕食をかき込み、さっさと寝台に潜り込んだ。
◇◇◇
翌朝。
出発の準備が整ったころ、慌ただしい足音が近づく。
「おい、あんたらの坊主がな――」
トーニオが困り顔で飛び込んできた。
「『連れてってくれないなら動かない!』って、道の真ん中で寝転がってるぞ……」
ディランとユーシャスは顔を見合わせ、列の先頭へ向かう。
そこには、石畳の轍の上で両手両足を突っ張ったマルコがいた。
旅人たちが遠巻きに眺め、くすくす笑っている。
「マルコ、何をしている!」
「僕もエゼルウートへ行きます! 動きませんから!」
護衛やファルカシュ兵までもが面白がっている。
ディランは額を押さえ、無言でマルコの足首を掴む。
そのまま、ずるずると引きずった。
「い、痛い! 頭の後ろがハゲます!」
「行き先を大声でバラしてどうする!」
解放されたマルコは跳ね起きる。
「絶対に行きます!」
「マルコ……」
ユーシャスがそっと背を撫でる。
いつの間にか、マルコの背丈は彼女と変わらぬほどになっていた。
「あなたは商人になりたいのでしょう? 頑張って掛け算もできるようになったのに」
「……でも、でも、やっぱり一緒がいいんです!」
しばし沈黙。
ディランは深く息を吐く。
「……商会主には手紙を書く。許可が出なければ、戻れ。いいな」
涙を残したまま、ぱっと顔を輝かせる。
「はいっ!」
隊商は再び動き出す。
目印の山の雪が、朝日に照らされて白く光る。
初夏の匂いが、少しだけ早すぎる気がした。
次回、第199話 「それぞれの朝」 2月24日(火)19:15更新予定




