197 目印の山【ヴィドリヴォ・ゴーラ】
隊商は、目印の山を仰ぎながら、つづら折りの峠道を進んでいた。
白い石畳は山腹を縫うように這い上がり、遠目には山肌を裂く一本の古傷のように見える。乾いた光を弾くその道は、幾度も血と鉄を通してきた歴史そのものだった。
戻れば辺境。
越えれば商業諸国。
その境界が、いま目の前にある。
ユーシャスは馬車の座席に膝をつき、窓枠に指をかけて山を見上げた。冷たい風が頬を撫で、柔らかな黒髪を揺らす。
――目印の山。
旅人の道標。
「こんなに高い山なのに、馬車で越えられるのですね」
対面に座るディランも視線を外へ向ける。長い睫毛の影が頬に落ち、孔雀色の瞳が険しい斜面をなぞった。
「ここは昔から、辺境へ攻め入るために整備されてきた道だ。馬車のまま越えられる、唯一の峠だ」
石畳には深い轍が刻まれている。幾世代もの車輪が削った溝だ。車輪がそこをなぞるたび、馬車は細かく震え、木材が低く軋んだ。
「もうすぐ休憩ですよ!」
外から、マルコの明るい声が跳ねる。
ユーシャスは振り向き、首を傾げた。
「少し前にも休んだばかりでは?」
「山道は人も馬も消耗が激しい。こまめに止まらなければ、保たないだろう」
ディランはそう言うが、御者席ではすでにサムエルとマルコが降り、馬の頭を取って引いているのが見えた。後方では、荷を山と積んだ馬車を商会の使用人たちが押している。
「……私も降りた方がいいでしょうか」
「この馬車は荷が少ない。乗っていた方が安定する」
柔らかな声。
ユーシャスは思わず顔を逸らし、再び窓の外へ視線を戻す。
この山を越えれば、ディルムラートまではあとわずか。
――『その手を離すでない』
“眠る者”の声が、胸の奥でさざ波のように揺れる。
けれど、別れは確実に迫っていた。
山から吹き下ろす風に、どこか懐かしい息吹が混じった気がする。
その瞬間――
『ガタン!』
鋭い衝撃が足元から突き上げた。
次の瞬間、馬車が大きく傾く。
木材が悲鳴を上げ、金具が甲高く鳴った。床に置かれたチェストが滑り、壁へ激突する鈍い音が響く。
身体が後方へ引きずられる。窓枠を掴んでいた指が外れた。
視界が回る。
天井。
揺れる帳。
――青い空。
山が、窓いっぱいに傾いている。
――あの時と同じ。
荒れ狂う波。鼻を刺す潮の匂い。濡れた板壁。傾く船体。
息が吸えない。
胸が固く締め上げられ、肺が凍りついたように動かない。
――また、叩きつけられる。
衝撃に備え、目を閉じた。
だが訪れたのは、硬い床ではなかった。
背中を受け止めたのは、人の身体。
衣服越しにも伝わる体温。身体を支える腕。耳元をかすめる低い呼吸。
――ディラン。
近くで馬の荒い鼻息が響く。馬車は軋みながら傾きを戻し、やがて揺れが収まった。
「大丈夫ですか? 怪我は――」
帳が勢いよく開き、マルコが覗き込む。
だが一瞬で固まり、何も言わずに帳を閉じる。外で小さな咳払いが聞こえた。
ユーシャスは、自分がディランの膝の上にいることに気づく。
裾は乱れ、脚は宙に突き出ている。
熱が一気に頬へ集まった。
「す、すみません、すみません!」
慌てて降り、真っ赤な顔で衣服を整える。乱れた髪を押さえ、震える指で胸元を直す。
「傾いたのがこちら側でよかった。反対だったら、押し潰していたかもしれん」
冗談めいたディランの声音。
さきほどまで包んでいた温度だけが、肌に残っている。
やがて兵たちが集まり、馬車を支え直す。石畳の継ぎ目や車軸が点検されるが、異常は見当たらない。
ほどなくして再び動き出す。
ユーシャスの胸の鼓動は収まらず、ただ窓の外を見つめ続けていた。
開けた休憩地に辿り着く。
山あいの草原。薄紫や白の花々が風に揺れ、波のように広がっている。草が擦れ合い、さわさわと柔らかな音を立てた。
その音が、“眠る者”の笑い声のように聞こえる。
マルコが花畑の中に敷物を広げた。
「サムエルさんが馬車を点検します。終わるまで、ここで休んでてくださいね」
水桶を手に、馬のもとへ向かう。
ユーシャスは敷物に腰を下ろす。地面は静かなのに、身体の奥だけがまだ揺れている。
ディランは立ったまま、何事もなかったかのように隊商を見渡している。風に黒髪が揺れ、横顔は静かに整っていた。
やがて、アンネッタが息を弾ませて駆け寄る。
「お嬢さん、大丈夫かい? 派手に傾いたねえ」
「あ……はい、無事です」
「ひっくり返らなくてよかったよ。山道は横転が多いんだ。中には死ぬ人もいるからさ。でも妙だねえ。石畳も馬車も、どこも壊れちゃいない」
サムエルが車輪と車軸を丁寧に確かめながら首をひねる。
「精霊のいたずらかねえ」
アンネッタが肩をすくめて去る。
そのとき。
一頭の馬が静かに近づいてきた。
鞍上の男は、見覚えがない。つばの広い帽子を深く被り、灰色のマントを羽織り、革の鞄を提げている。
なぜか印象に残らない顔。視線を外した瞬間、輪郭が霧に溶けるよう。
男は馬を降りると、ディランの前で膝をついた。
「エゼルウートより、お届けに参りました」
二通の手紙が差し出される。
ディランは封蝋を確認する。
一通はコンラッド。
もう一通は――ジーン。
封を持つ指が、わずかに止まった。
先にコンラッドの封を切る。旅の無事を気遣う内容。特筆すべき異変はない。
そして、ジーンの手紙。
封を開いた瞬間、空気が変わった。
孔雀色の瞳が鋭く細められる。
手紙を握る指先に力がこもり、紙が小さく軋んだ。
次回、第198話 「補佐官の手紙」 2月21日(土)11:00更新予定




