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エル・カルド(失われた聖剣)  作者: 夜田 眠依
第二十五章 生々流転
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197 目印の山【ヴィドリヴォ・ゴーラ】

 隊商は、目印の山(ヴィドリヴォ・ゴーラ)を仰ぎながら、つづら折りの峠道を進んでいた。

 

 白い石畳は山腹を縫うように這い上がり、遠目には山肌を裂く一本の古傷のように見える。乾いた光を弾くその道は、幾度も血と鉄を通してきた歴史そのものだった。


 戻れば辺境。 

 越えれば商業諸国。


 その境界が、いま目の前にある。


 ユーシャスは馬車の座席に膝をつき、窓枠に指をかけて山を見上げた。冷たい風が頬を撫で、柔らかな黒髪を揺らす。

 

 ――目印の山。 

 旅人の道標。


「こんなに高い山なのに、馬車で越えられるのですね」


 対面に座るディランも視線を外へ向ける。長い睫毛の影が頬に落ち、孔雀色の瞳が険しい斜面をなぞった。


「ここは昔から、辺境へ攻め入るために整備されてきた道だ。馬車のまま越えられる、唯一の峠だ」


 石畳には深い轍が刻まれている。幾世代もの車輪が削った溝だ。車輪がそこをなぞるたび、馬車は細かく震え、木材が低く軋んだ。


「もうすぐ休憩ですよ!」


 外から、マルコの明るい声が跳ねる。

 ユーシャスは振り向き、首を傾げた。


「少し前にも休んだばかりでは?」


「山道は人も馬も消耗が激しい。こまめに止まらなければ、保たないだろう」


 ディランはそう言うが、御者席ではすでにサムエルとマルコが降り、馬の頭を取って引いているのが見えた。後方では、荷を山と積んだ馬車を商会の使用人たちが押している。


「……私も降りた方がいいでしょうか」


「この馬車は荷が少ない。乗っていた方が安定する」


 柔らかな声。

 ユーシャスは思わず顔を逸らし、再び窓の外へ視線を戻す。


 この山を越えれば、ディルムラートまではあとわずか。


 ――『その手を離すでない』


 “眠る者”の声が、胸の奥でさざ波のように揺れる。


 けれど、別れは確実に迫っていた。


 山から吹き下ろす風に、どこか懐かしい息吹が混じった気がする。


 その瞬間――


『ガタン!』


 鋭い衝撃が足元から突き上げた。


 次の瞬間、馬車が大きく傾く。


 木材が悲鳴を上げ、金具が甲高く鳴った。床に置かれたチェストが滑り、壁へ激突する鈍い音が響く。


 身体が後方へ引きずられる。窓枠を掴んでいた指が外れた。


 視界が回る。


 天井。

 揺れる帳。

 ――青い空。


 山が、窓いっぱいに傾いている。


 ――あの時と同じ。


 荒れ狂う波。鼻を刺す潮の匂い。濡れた板壁。傾く船体。


 息が吸えない。


 胸が固く締め上げられ、肺が凍りついたように動かない。


 ――また、叩きつけられる。


 衝撃に備え、目を閉じた。


 だが訪れたのは、硬い床ではなかった。


 背中を受け止めたのは、人の身体。


 衣服越しにも伝わる体温。身体を支える腕。耳元をかすめる低い呼吸。


 ――ディラン。


 近くで馬の荒い鼻息が響く。馬車は軋みながら傾きを戻し、やがて揺れが収まった。


「大丈夫ですか? 怪我は――」


 帳が勢いよく開き、マルコが覗き込む。

 だが一瞬で固まり、何も言わずに帳を閉じる。外で小さな咳払いが聞こえた。


 ユーシャスは、自分がディランの膝の上にいることに気づく。

 

 裾は乱れ、脚は宙に突き出ている。


 熱が一気に頬へ集まった。


「す、すみません、すみません!」


 慌てて降り、真っ赤な顔で衣服を整える。乱れた髪を押さえ、震える指で胸元を直す。

 

「傾いたのがこちら側でよかった。反対だったら、押し潰していたかもしれん」


 冗談めいたディランの声音。


 さきほどまで包んでいた温度だけが、肌に残っている。


 やがて兵たちが集まり、馬車を支え直す。石畳の継ぎ目や車軸が点検されるが、異常は見当たらない。


 ほどなくして再び動き出す。


 ユーシャスの胸の鼓動は収まらず、ただ窓の外を見つめ続けていた。


  

 開けた休憩地に辿り着く。


 山あいの草原。薄紫や白の花々が風に揺れ、波のように広がっている。草が擦れ合い、さわさわと柔らかな音を立てた。


 その音が、“眠る者”の笑い声のように聞こえる。


 マルコが花畑の中に敷物を広げた。


「サムエルさんが馬車を点検します。終わるまで、ここで休んでてくださいね」


 水桶を手に、馬のもとへ向かう。


 ユーシャスは敷物に腰を下ろす。地面は静かなのに、身体の奥だけがまだ揺れている。


 ディランは立ったまま、何事もなかったかのように隊商を見渡している。風に黒髪が揺れ、横顔は静かに整っていた。


 やがて、アンネッタが息を弾ませて駆け寄る。


「お嬢さん、大丈夫かい? 派手に傾いたねえ」


「あ……はい、無事です」


「ひっくり返らなくてよかったよ。山道は横転が多いんだ。中には死ぬ人もいるからさ。でも妙だねえ。石畳も馬車も、どこも壊れちゃいない」


 サムエルが車輪と車軸を丁寧に確かめながら首をひねる。


「精霊のいたずらかねえ」


 アンネッタが肩をすくめて去る。


 そのとき。


 一頭の馬が静かに近づいてきた。


 鞍上の男は、見覚えがない。つばの広い帽子を深く被り、灰色のマントを羽織り、革の鞄を提げている。


 なぜか印象に残らない顔。視線を外した瞬間、輪郭が霧に溶けるよう。


 男は馬を降りると、ディランの前で膝をついた。


「エゼルウートより、お届けに参りました」


 二通の手紙が差し出される。

 

 ディランは封蝋を確認する。


 一通はコンラッド。

 もう一通は――ジーン。


 封を持つ指が、わずかに止まった。


 先にコンラッドの封を切る。旅の無事を気遣う内容。特筆すべき異変はない。


 そして、ジーンの手紙。


 封を開いた瞬間、空気が変わった。


 孔雀色の瞳が鋭く細められる。


 手紙を握る指先に力がこもり、紙が小さく軋んだ。

次回、第198話 「補佐官の手紙」 2月21日(土)11:00更新予定

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