196 翳りの森
白き山の北側を、東西に伸びる街道――見晴らしのきく北回廊を、ウィンを乗せた馬車は東へと走っていた。
山肌はすでに薄紫の影に沈み、空は燃え残りのような朱を帯びている。車輪が砂利を噛む音だけが、乾いた風に混じって響いていた。
夕暮れ、一行は小さな町へ入った。
馬車が止まったのは、町外れの宿だった。土壁には古い亀裂が走り、軋んだ扉は押すたびに不快な悲鳴をあげる。軒先に吊るされた看板も、煤で曇っていた。
庶民向けの、安宿。
そうとしか言いようのない佇まいだった。
ウィンが馬車から降りた、そのとき。
視界の端、路地の陰から、そっと覗く顔がある。
――ニケ。
目を丸くしたウィンに、ニケは唇へ長い指を立てた。銀色の髪が、夕闇のなかで静かに揺れている。
ウィンは小さくうなずき、何事もなかったように男たちのあとを追って宿へ入った。
軋む階段を上り、二階の一室へ押し込まれる。
扉が閉まった瞬間、先ほどまで丁寧な笑みを浮かべていた男の顔から、愛想がすっと消えた。
くしゃくしゃに丸めた衣服が、無造作に放られる。
「明日からは、それを着るんだ」
広げると、少年用の簡素な服だった。色褪せた上着に、膝丈のズボン。
「馬に乗るからな。今の服は置いていけ」
「でも……」
胸がきゅっと縮む。
そのドレスも帽子も、エディシュから譲り受けた大切な品だ。置いていくなど、できるはずがない。
だが男は、ウィンの葛藤など一顧だにせず、淡々と言い放つ。
「朝は早い。飯を食ったら寝ろ。蝋燭は消せ」
机の上には、薄いスープと乾いたパン。湯気はすでに弱く、冷えかけている。
ウィンは黙って椅子に座り、ゆっくりと食事を終えた。
それから、窓辺へ立つ。
窓に硝子はない。はめ込まれた木の雨戸の隙間から、夜風が忍び込み、外のざわめきを運んでくる。遠くで犬が吠え、どこかで戸が閉まる音がした。
――コツン。
小さな衝撃。
雨戸が外から叩かれる。
そっと戸が押し開かれ、闇よりも滑らかな影が、するりと部屋へ落ちた。
「ニケさん!」
思わず駆け寄り、抱きつく。
ニケは部屋の様子を素早く見渡し、それから小さな身体をやわらかく抱き留めた。
「大丈夫。私がずっと見守っています」
その声は低く、しかし確かな温度を帯びている。
「ねえ……あの人たち、ドレスも帽子も置いてけって。エディシュさんがくれたのに」
うつむいたウィンの声は、かすかに震えていた。
ニケは一瞬、目を伏せる。
「わかりました。後で回収しておきましょう」
「ほんと?」
「はい。だからあなたは、あの人たちの言うことを聞いて。決して逆らわないように」
その言葉は、祈りにも似ていた。
「うん……。ねえ、明日から馬に乗るんだって」
「そうですか。では、私も馬で追いましょう」
にっこりと微笑む。
月明かりを受けて、銀の髪が淡く光った。
次の瞬間、彼女は窓から夜へ溶ける。気配だけを残して。
胸の奥の不安が、少しだけ軽くなる。
ウィンは粗い寝台にもぐり込み、そのまま目を閉じた。
◇◇◇
翌朝から、ニケは馬を駆り、遠巻きに一行を追った。
北回廊をひたすら東へ。
ウィンは男の前に乗せられ、馬の首元にしがみつく。鞭の音が乾いた空を裂き、馬の呼気が熱く弾ける。
約束通り、小さなクラリッツァだけは丁重に担がれていた。
夜は宿。
朝はまだ暗いうちに出立。
休む暇もなく、距離だけを稼ぐ。
――急いでいる。
それだけは、ニケにもはっきりとわかった。
いくつもの町を越え、国境を越え、景色は次第に荒れていく。
やがて辺境。
サマールまで、あとわずかという頃。
馬は、山の麓に広がる深い森へと踏み入った。
針葉樹の影が濃く、昼だというのに薄暗い。湿った土の匂いが立ちこめる。
その先。
数人の男たちが、待ち構えていた。
「ご当主」
馬から降りた使いの男が、木陰に立つ赤髪の男へ声をかける。
「よく連れてきてくれた。ご苦労だったね」
赤い髪は森の翳りのなかでも鮮やかだった。穏やかな笑みを浮かべ、ウィンへ手を伸ばす。
抱き上げる動作は優しい。
「君が、ウィネスだね。これから山越えになる。でも心配はいらない。ここにいる者たちが交代で背負ってくれる」
「サマールへは、山を越えるの?」
不安が、声に滲む。
その瞬間――
「サマールへ行くのに、山は越えない。……その子をどこへ連れて行く気だ」
鋭い声が、森を裂いた。
ニケ。
木立の間から姿を現した彼女に、男たちの空気が変わる。
赤髪の男の笑みが、静かに薄れた。
「――これは驚いた。銀騎士ニケか。エゼルウートから追ってきたのか」
「なぜ、私の名を知っている」
「有名だからだよ。知らぬ者のほうが少ない」
ニケの目が細まる。指先はすでに剣の柄へ。
「……お前は誰だ。その子をどこへ連れて行く」
赤髪の男は、ウィンへ一瞬視線を落とし、慎重に言葉を紡ぐ。
「私の名はルフス。この子は父親の親族のもとへ連れて行く」
「父親? 母方ではないのか」
「残念だが、母方はこの子を探していない。探していたのは父方だ」
「だが、父親が誰かは――」
剣が、わずかに鳴る。
ルフスは肩をすくめた。
「この子の父親は、フォローゼルの人間だ。正直に話していたら、君たちは手放したかい?」
沈黙が落ちる。
「……詮索はやめてくれ。いずれ身元は知らされる。エゼルウートで待っていてほしい」
「戯言を信じろと?」
抜剣の音が、森に鋭く響いた。
そのとき、ルフスの目の奥に、かすかな翳りが差す。
「ローダインの補佐官に私の名を聞いてみるといい。……嫌な顔をされるだろうがね」
「ジーン殿に?」
その名に、ニケの表情が揺れた。
ルフスは腰を折り、ウィンと目線を合わせる。
声音は、驚くほど柔らかい。
「ウィネス。君はどうしたい? お父さんの親戚に、会ってみたくはないか?」
小さな手が、ぎゅっと握られる。
しばしの逡巡。
そして、顔を上げる。
「あたし……会ってみたい」
森の奥から風が吹き抜け、木々を鳴らした。
ルフスは優しく肩に手を置き、ニケへ薄く笑う。
「……ということだ。暗くならぬうちに行こう」
部下のひとりがウィンを背負う。
山道へと続く細い獣道へ、男たちは静かに踏み出した。
背中が木々の影に溶けていく。
やがて、完全に見えなくなる。
ニケはしばらくその場に立ち尽くした。
握りしめた剣を、ゆっくりと鞘へ収める。
そして馬に跨がり、ひとり、帰路へと向かった。
森の翳りが、彼女の背を深く包み込んでいた。
次回、第197話 「目印の山【ヴィドリヴォ・ゴーラ】」 2月19日(木)19:15更新予定




