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エル・カルド(失われた聖剣)  作者: 夜田 眠依
第二十五章 生々流転
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196 翳りの森

 白き山(ベラ・ゴーラ)の北側を、東西に伸びる街道――見晴らしのきく北回廊を、ウィンを乗せた馬車は東へと走っていた。

 

 山肌はすでに薄紫の影に沈み、空は燃え残りのような朱を帯びている。車輪が砂利を噛む音だけが、乾いた風に混じって響いていた。

 

 夕暮れ、一行は小さな町へ入った。

 

 馬車が止まったのは、町外れの宿だった。土壁には古い亀裂が走り、軋んだ扉は押すたびに不快な悲鳴をあげる。軒先に吊るされた看板も、煤で曇っていた。

 

 庶民向けの、安宿。


 そうとしか言いようのない佇まいだった。

 

 ウィンが馬車から降りた、そのとき。

 

 視界の端、路地の陰から、そっと覗く顔がある。

 

 ――ニケ。


 目を丸くしたウィンに、ニケは唇へ長い指を立てた。銀色の髪が、夕闇のなかで静かに揺れている。


 ウィンは小さくうなずき、何事もなかったように男たちのあとを追って宿へ入った。


 軋む階段を上り、二階の一室へ押し込まれる。


 扉が閉まった瞬間、先ほどまで丁寧な笑みを浮かべていた男の顔から、愛想がすっと消えた。


 くしゃくしゃに丸めた衣服が、無造作に放られる。


「明日からは、それを着るんだ」


 広げると、少年用の簡素な服だった。色褪せた上着に、膝丈のズボン。


「馬に乗るからな。今の服は置いていけ」


「でも……」


 胸がきゅっと縮む。


 そのドレスも帽子も、エディシュから譲り受けた大切な品だ。置いていくなど、できるはずがない。


 だが男は、ウィンの葛藤など一顧だにせず、淡々と言い放つ。


「朝は早い。飯を食ったら寝ろ。蝋燭は消せ」


 机の上には、薄いスープと乾いたパン。湯気はすでに弱く、冷えかけている。


 ウィンは黙って椅子に座り、ゆっくりと食事を終えた。


 それから、窓辺へ立つ。


 窓に硝子はない。はめ込まれた木の雨戸の隙間から、夜風が忍び込み、外のざわめきを運んでくる。遠くで犬が吠え、どこかで戸が閉まる音がした。


 ――コツン。


 小さな衝撃。


 雨戸が外から叩かれる。


 そっと戸が押し開かれ、闇よりも滑らかな影が、するりと部屋へ落ちた。


「ニケさん!」


 思わず駆け寄り、抱きつく。


 ニケは部屋の様子を素早く見渡し、それから小さな身体をやわらかく抱き留めた。


「大丈夫。私がずっと見守っています」


 その声は低く、しかし確かな温度を帯びている。


「ねえ……あの人たち、ドレスも帽子も置いてけって。エディシュさんがくれたのに」


 うつむいたウィンの声は、かすかに震えていた。


 ニケは一瞬、目を伏せる。


「わかりました。後で回収しておきましょう」

 

「ほんと?」


「はい。だからあなたは、あの人たちの言うことを聞いて。決して逆らわないように」


 その言葉は、祈りにも似ていた。


「うん……。ねえ、明日から馬に乗るんだって」


「そうですか。では、私も馬で追いましょう」


 にっこりと微笑む。


 月明かりを受けて、銀の髪が淡く光った。


 次の瞬間、彼女は窓から夜へ溶ける。気配だけを残して。


 胸の奥の不安が、少しだけ軽くなる。


 ウィンは粗い寝台にもぐり込み、そのまま目を閉じた。


◇◇◇


 翌朝から、ニケは馬を駆り、遠巻きに一行を追った。


 北回廊をひたすら東へ。


 ウィンは男の前に乗せられ、馬の首元にしがみつく。鞭の音が乾いた空を裂き、馬の呼気が熱く弾ける。


 約束通り、小さなクラリッツァだけは丁重に担がれていた。


 夜は宿。

 

 朝はまだ暗いうちに出立。

 

 休む暇もなく、距離だけを稼ぐ。

 

 ――急いでいる。

 

 それだけは、ニケにもはっきりとわかった。

 いくつもの町を越え、国境を越え、景色は次第に荒れていく。


 やがて辺境。

 

 サマールまで、あとわずかという頃。

 

 馬は、山の麓に広がる深い森へと踏み入った。

 針葉樹の影が濃く、昼だというのに薄暗い。湿った土の匂いが立ちこめる。

 

 その先。

 数人の男たちが、待ち構えていた。


「ご当主」


 馬から降りた使いの男が、木陰に立つ赤髪の男へ声をかける。


「よく連れてきてくれた。ご苦労だったね」


 赤い髪は森の翳りのなかでも鮮やかだった。穏やかな笑みを浮かべ、ウィンへ手を伸ばす。


 抱き上げる動作は優しい。


「君が、ウィネスだね。これから山越えになる。でも心配はいらない。ここにいる者たちが交代で背負ってくれる」


「サマールへは、山を越えるの?」


 不安が、声に滲む。


 その瞬間――


「サマールへ行くのに、山は越えない。……その子をどこへ連れて行く気だ」


 鋭い声が、森を裂いた。


 ニケ。


 木立の間から姿を現した彼女に、男たちの空気が変わる。


 赤髪の男の笑みが、静かに薄れた。


「――これは驚いた。銀騎士ニケか。エゼルウートから追ってきたのか」


「なぜ、私の名を知っている」


「有名だからだよ。知らぬ者のほうが少ない」


 ニケの目が細まる。指先はすでに剣の柄へ。


「……お前は誰だ。その子をどこへ連れて行く」


 赤髪の男は、ウィンへ一瞬視線を落とし、慎重に言葉を紡ぐ。


「私の名はルフス。この子は父親の親族のもとへ連れて行く」


「父親? 母方ではないのか」


「残念だが、母方はこの子を探していない。探していたのは父方だ」


「だが、父親が誰かは――」


 剣が、わずかに鳴る。

 ルフスは肩をすくめた。


「この子の父親は、フォローゼルの人間だ。正直に話していたら、君たちは手放したかい?」


 沈黙が落ちる。


「……詮索はやめてくれ。いずれ身元は知らされる。エゼルウートで待っていてほしい」


「戯言を信じろと?」


 抜剣の音が、森に鋭く響いた。


 そのとき、ルフスの目の奥に、かすかな翳りが差す。


「ローダインの補佐官に私の名を聞いてみるといい。……嫌な顔をされるだろうがね」


「ジーン殿に?」


 その名に、ニケの表情が揺れた。


 ルフスは腰を折り、ウィンと目線を合わせる。

 声音は、驚くほど柔らかい。


「ウィネス。君はどうしたい? お父さんの親戚に、会ってみたくはないか?」


 小さな手が、ぎゅっと握られる。

 

 しばしの逡巡。

 

 そして、顔を上げる。


「あたし……会ってみたい」


 森の奥から風が吹き抜け、木々を鳴らした。


 ルフスは優しく肩に手を置き、ニケへ薄く笑う。

 

「……ということだ。暗くならぬうちに行こう」


 部下のひとりがウィンを背負う。

 

 山道へと続く細い獣道へ、男たちは静かに踏み出した。

 背中が木々の影に溶けていく。 

 やがて、完全に見えなくなる。

 

 ニケはしばらくその場に立ち尽くした。 

 握りしめた剣を、ゆっくりと鞘へ収める。

 

 そして馬に跨がり、ひとり、帰路へと向かった。 

 森の翳りが、彼女の背を深く包み込んでいた。

次回、第197話 「目印の山【ヴィドリヴォ・ゴーラ】」 2月19日(木)19:15更新予定

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