195 小さな旅立ち
帝都の町は、やわらかな若葉に縁どられていた。
石畳の隙間からのぞく草も、果樹の枝にふくらみはじめた実も、まだ青く、まだ頼りない。
それでも、季節は誰を待つこともない。
その朝、ゼーラーン家の石造りの門柱は、低い日差しを受けて長い影を落としていた。
その影を踏みしめながら、リコは玄関前に立つ。
――調査の結果を、伝えなければならない。
胸の奥に沈む重みを押し上げるように、彼は一度だけ息を整えた。
執事に案内され、磨き上げられた廊下を進む。
応接室の扉が静かに開かれた。
オーレリア夫人は長椅子に腰を掛けていた。
淡い色のドレスの襞は乱れなく、背筋は糸で引かれたようにまっすぐ伸びている。
その整った姿勢のまま、彼女は静かに顔を上げた。
「まあ……ウィネスちゃんのお母様は、サマールの大臣家のご息女だったの」
「はい。けれど、お相手は身分の違う方だったようで……」
リコは視線をわずかに落とす。
「身ごもったことが知られる前に、家を抜け出したそうです。その後、娘さんを神殿で密かに出産し、数年は母子で身を潜めて暮らしていたと……」
人知れぬ神殿の石壁の部屋で、小さな命を抱き寄せる母の姿が、脳裏に浮かぶ。
「それで、どうなさったの?」
「神殿での暮らしも長くは続かず、家人に見つかって連れ戻されました。その後、望まぬ縁談で嫁がされ……お産の折に亡くなられたそうです」
言葉を終えた瞬間、空気がわずかに沈む。
リコの脳裏に、難産だった妻の呻き声が蘇る。
汗に濡れた額。握りしめられた指の力。
止まった呼吸の先にあった、静寂。
リコは気づかれぬよう、短く息を吐いた。
オーレリアはゆっくりと目を伏せる。
「お気の毒に……。お父様は、わからないままなのね?」
「はい。どなたなのかは、最後まで口にされなかったと聞いています。今回、引き取りを申し出ておられるのは、母親の兄……つまりウィンの伯父にあたる方です。ずっと行方を探していたそうですが……」
「“ずっと”探していた……?」
オーレリアの指先が、膝の上でわずかに止まる。
視線は伏せられ、すぐに整えられた。
リコの胸にも、名のつかない違和が残る。
だが、証はない。拒む理由も。
「ウィネスちゃんには、どなたからお話ししますか? 私が……?」
「いえ、私から伝えます。ここへ連れてきた責任は、私にあります」
声は穏やかだった。
だが、膝の上で握った拳が、わずかに白くなる。
やがてオーレリアに伴われ、ウィンが部屋に入ってきた。
扉が閉まる。
その音が、いつもより重く響く。
リコは一度だけ息を吸い、彼女に向き合った。
事実を伝えるあいだ、ウィンは驚くほど静かだった。
あの日、パンの皿に覆いかぶさっていた小さな背はもうない。
まっすぐに立ち、最後まで視線を逸らさない。
「……あたしは、そのおじさんのところへ行くの?」
「ああ、そうなる」
ウィンは唇をきゅっと結び、うつむく。
指先が、スカートの布を握った。
「……わかった」
彼女は顔を上げる。
「リコ隊長、ありがとう」
差し出しかけた手を、リコは途中で止める。
行き場をなくした指を握り込み、代わりに敬礼を返した。
それが、今の自分に許された距離だった。
その夜、ゼーラーン家ではコンラッドとエディシュにも話が伝えられた。
迎えは二日後に来る。
オーレリアとエディシュは急ぎ支度を整え始める。
衣装箱の蓋が開き、懐かしい布地が光にさらされる。
エディシュの幼い頃の服や帽子が、ウィンの前に並べられた。
袖を当ててみる。
少しだけ大きい。
コンラッドは道中の退屈しのぎになればと、小さなクラリッツァを手に帰ってきた。
それを受け取ったウィンは、しばらく言葉を失い、やがて小さく笑った。
出発の前夜、ウィンはそっとエディシュの部屋を訪れた。
「今日は……一緒に寝ても、いい?」
エディシュは少しだけ目を見開き、それから微笑んだ。
掛け布をめくる。
ウィンは靴を揃えて脱ぎ、静かに潜り込んだ。
肩が触れる。
ふたりで顔を見合わせ、くすりと笑う。
エディシュはウィンの髪に指を通す。
少し伸びた髪が、さらりとほどける。
「明日ね、リボンで結んであげるわ」
「本当?」
「うん。きっと似合うと思う」
ウィンは目を閉じ、しばらく黙っていたが、やがてぽつりとこぼした。
「お母さんも、よく撫でてくれたの」
エディシュの指が、ほんの一瞬止まる。
それから、何も言わずに撫で続けた。
規則正しいその動きに、ウィンの呼吸が少しずつ深くなっていく。
「わたし、シルヴァが戻ってきたらエル・カルドへ行くつもりなの。だから、サマールにも会いに行ける」
「……本当に?」
「ほんと」
ウィンは目を開ける。
「絶対、会いに来てね」
「絶対、行くわ。約束」
やがてウィンは、安心したようにエディシュの隣で眠りについた。
エディシュはしばらく、その寝顔を見つめていた。
翌朝。
窓から差し込む光の中で、ウィンは身支度を整える。
ドレスに袖を通し、背中の留め具を留めてもらう。
髪を梳かれ、淡い色のリボンで結ばれる。
帽子をかぶると、鏡の中には小さな令嬢が立っていた。
昨日までより、ほんの少しだけ背筋が伸びている。
ゼーラーン家の門前に、一台の馬車が停まった。
御者の掛け声が、朝の空気を震わせる。
中から整った身なりの中年の男が降り立つ。
衣服は上等で、所作も丁寧だった。
「ウィネスお嬢様、お迎えに上がりました」
深く頭を下げる。
だが、その表情に歓迎の熱はない。
エディシュは無意識に、その指先を見た。
人足のようなゴツゴツとした手。
オーレリアは何も言わない。
ただ、穏やかな笑みを崩さないまま、男を見つめている。
執事が荷を運ぼうとすると、男はやんわりと手を挙げて制した。
「お嬢様のお荷物は、すべてこちらで新調いたします。ご不自由はさせませんので、ご安心を」
言葉は丁寧だった。
けれど、その笑みはほんの少し遅れて浮かんだ。
「これも、持って行っちゃダメ?」
ウィンは、小さなクラリッツァをそっと掲げる。
「おもちゃの一つや二つなら、構いません。さあ、お乗りください」
ウィンはそれを胸に抱き、振り返る。
「皆さん、お世話になりました」
深く頭を下げる姿は、昨日よりも凛としている。
「よくできました。その調子で、伯父様のところでもご挨拶するのですよ」
「はい!」
声は明るい。
ほんの少しだけ、強がっているようにも聞こえた。
馬車のステップを一段ずつ上がる。
裾を踏みかけ、小さく体を揺らす。
すぐに体勢を立て直し、席に腰を下ろした。
扉が閉まる。
御者の声。
蹄の音が石畳に重なる。
窓越しに、小さな手が一度だけ振られた。
やがて馬車は角を曲がり、姿を消す。
オーレリアは石畳の先を見つめたまま、ぽつりとつぶやく。
「さっきの方、服装と中身が釣り合っていなかったわね……」
エディシュは、胸の奥に残っていた違和感の正体を、静かに受け止めた。
あの男の装いは立派だった。
けれど、所作の端に、拭いきれない粗さがあった。
コンラッドが朝日を手で遮る。
「話が変だと思ったよ。“ずっと”探していたなんて」
庭の木々が風を受け、枝の若実が揺れる。
庭の芝を踏みしめる蹄の音。
背後から、馬のいななき。
振り返ると、旅装をまとったニケが馬にまたがっていた。
「悪いね、ニケ。こんなこと頼んでしまって」
コンラッドが言うと、ニケは静かに首を振る。
「いえ。彼女のこと、気になっていましたから」
それ以上の言葉はない。
「ウィンが、ちゃんと“おじさん”の家に行けるかどうか、見届けてくれるかい」
ニケは頷き、馬の腹を軽く蹴る。
「それでは、行ってきます」
朝日に溶けるように、その背は遠ざかる。
残された三人は、しばらく動かなかった。
石畳の上に残る車輪の跡を、風が少しずつ崩していく。
次回、第196話 「翳りの森」 2月17日(火)19:15更新予定




