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エル・カルド(失われた聖剣)  作者: 夜田 眠依
第二十五章 生々流転
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195 小さな旅立ち

 帝都の町は、やわらかな若葉に縁どられていた。

 石畳の隙間からのぞく草も、果樹の枝にふくらみはじめた実も、まだ青く、まだ頼りない。

 それでも、季節は誰を待つこともない。

 

 その朝、ゼーラーン家の石造りの門柱は、低い日差しを受けて長い影を落としていた。

 その影を踏みしめながら、リコは玄関前に立つ。


 ――調査の結果を、伝えなければならない。


 胸の奥に沈む重みを押し上げるように、彼は一度だけ息を整えた。


 執事に案内され、磨き上げられた廊下を進む。

 応接室の扉が静かに開かれた。

 オーレリア夫人は長椅子に腰を掛けていた。

 淡い色のドレスの襞は乱れなく、背筋は糸で引かれたようにまっすぐ伸びている。

 その整った姿勢のまま、彼女は静かに顔を上げた。


「まあ……ウィネスちゃんのお母様は、サマールの大臣家のご息女だったの」


「はい。けれど、お相手は身分の違う方だったようで……」


 リコは視線をわずかに落とす。


「身ごもったことが知られる前に、家を抜け出したそうです。その後、娘さんを神殿で密かに出産し、数年は母子で身を潜めて暮らしていたと……」

 

 人知れぬ神殿の石壁の部屋で、小さな命を抱き寄せる母の姿が、脳裏に浮かぶ。


「それで、どうなさったの?」


「神殿での暮らしも長くは続かず、家人に見つかって連れ戻されました。その後、望まぬ縁談で嫁がされ……お産の折に亡くなられたそうです」


 言葉を終えた瞬間、空気がわずかに沈む。

 リコの脳裏に、難産だった妻の呻き声が蘇る。

 汗に濡れた額。握りしめられた指の力。

 止まった呼吸の先にあった、静寂。

 リコは気づかれぬよう、短く息を吐いた。

 

 オーレリアはゆっくりと目を伏せる。


「お気の毒に……。お父様は、わからないままなのね?」


「はい。どなたなのかは、最後まで口にされなかったと聞いています。今回、引き取りを申し出ておられるのは、母親の兄……つまりウィンの伯父にあたる方です。ずっと行方を探していたそうですが……」


「“ずっと”探していた……?」

 

 オーレリアの指先が、膝の上でわずかに止まる。

 視線は伏せられ、すぐに整えられた。

 リコの胸にも、名のつかない違和が残る。

 だが、証はない。拒む理由も。


「ウィネスちゃんには、どなたからお話ししますか? 私が……?」


「いえ、私から伝えます。ここへ連れてきた責任は、私にあります」


 声は穏やかだった。

 だが、膝の上で握った拳が、わずかに白くなる。


 やがてオーレリアに伴われ、ウィンが部屋に入ってきた。


 扉が閉まる。

 その音が、いつもより重く響く。


 リコは一度だけ息を吸い、彼女に向き合った。

 事実を伝えるあいだ、ウィンは驚くほど静かだった。

 あの日、パンの皿に覆いかぶさっていた小さな背はもうない。

 まっすぐに立ち、最後まで視線を逸らさない。


「……あたしは、そのおじさんのところへ行くの?」


「ああ、そうなる」


 ウィンは唇をきゅっと結び、うつむく。

 指先が、スカートの布を握った。


「……わかった」


 彼女は顔を上げる。


「リコ隊長、ありがとう」


 差し出しかけた手を、リコは途中で止める。

 行き場をなくした指を握り込み、代わりに敬礼を返した。


 それが、今の自分に許された距離だった。



 その夜、ゼーラーン家ではコンラッドとエディシュにも話が伝えられた。


 迎えは二日後に来る。

 オーレリアとエディシュは急ぎ支度を整え始める。

 衣装箱の蓋が開き、懐かしい布地が光にさらされる。

 エディシュの幼い頃の服や帽子が、ウィンの前に並べられた。

 袖を当ててみる。

 少しだけ大きい。

 コンラッドは道中の退屈しのぎになればと、小さなクラリッツァを手に帰ってきた。

 それを受け取ったウィンは、しばらく言葉を失い、やがて小さく笑った。



 出発の前夜、ウィンはそっとエディシュの部屋を訪れた。


「今日は……一緒に寝ても、いい?」


 エディシュは少しだけ目を見開き、それから微笑んだ。

 掛け布をめくる。

 ウィンは靴を揃えて脱ぎ、静かに潜り込んだ。

 肩が触れる。

 ふたりで顔を見合わせ、くすりと笑う。


 エディシュはウィンの髪に指を通す。

 少し伸びた髪が、さらりとほどける。


「明日ね、リボンで結んであげるわ」


「本当?」


「うん。きっと似合うと思う」


 ウィンは目を閉じ、しばらく黙っていたが、やがてぽつりとこぼした。


「お母さんも、よく撫でてくれたの」


 エディシュの指が、ほんの一瞬止まる。

 それから、何も言わずに撫で続けた。

 規則正しいその動きに、ウィンの呼吸が少しずつ深くなっていく。


「わたし、シルヴァが戻ってきたらエル・カルドへ行くつもりなの。だから、サマールにも会いに行ける」

「……本当に?」

「ほんと」


 ウィンは目を開ける。


「絶対、会いに来てね」

「絶対、行くわ。約束」


 やがてウィンは、安心したようにエディシュの隣で眠りについた。

 エディシュはしばらく、その寝顔を見つめていた。



 翌朝。

 窓から差し込む光の中で、ウィンは身支度を整える。

 ドレスに袖を通し、背中の留め具を留めてもらう。

 髪を梳かれ、淡い色のリボンで結ばれる。

 帽子をかぶると、鏡の中には小さな令嬢が立っていた。

 昨日までより、ほんの少しだけ背筋が伸びている。


 ゼーラーン家の門前に、一台の馬車が停まった。

 御者の掛け声が、朝の空気を震わせる。

 中から整った身なりの中年の男が降り立つ。

 衣服は上等で、所作も丁寧だった。


「ウィネスお嬢様、お迎えに上がりました」


 深く頭を下げる。

 だが、その表情に歓迎の熱はない。

 エディシュは無意識に、その指先を見た。

 人足のようなゴツゴツとした手。


 オーレリアは何も言わない。

 ただ、穏やかな笑みを崩さないまま、男を見つめている。

 執事が荷を運ぼうとすると、男はやんわりと手を挙げて制した。


「お嬢様のお荷物は、すべてこちらで新調いたします。ご不自由はさせませんので、ご安心を」


 言葉は丁寧だった。

 けれど、その笑みはほんの少し遅れて浮かんだ。


「これも、持って行っちゃダメ?」


 ウィンは、小さなクラリッツァをそっと掲げる。


「おもちゃの一つや二つなら、構いません。さあ、お乗りください」


 ウィンはそれを胸に抱き、振り返る。


「皆さん、お世話になりました」


 深く頭を下げる姿は、昨日よりも凛としている。


「よくできました。その調子で、伯父様のところでもご挨拶するのですよ」

「はい!」


 声は明るい。

 ほんの少しだけ、強がっているようにも聞こえた。

 馬車のステップを一段ずつ上がる。

 裾を踏みかけ、小さく体を揺らす。

 すぐに体勢を立て直し、席に腰を下ろした。

 

 扉が閉まる。


 御者の声。

 蹄の音が石畳に重なる。


 窓越しに、小さな手が一度だけ振られた。


 やがて馬車は角を曲がり、姿を消す。


 オーレリアは石畳の先を見つめたまま、ぽつりとつぶやく。


「さっきの方、服装と中身が釣り合っていなかったわね……」


 エディシュは、胸の奥に残っていた違和感の正体を、静かに受け止めた。


 あの男の装いは立派だった。

 けれど、所作の端に、拭いきれない粗さがあった。


 コンラッドが朝日を手で遮る。


「話が変だと思ったよ。“ずっと”探していたなんて」


 庭の木々が風を受け、枝の若実が揺れる。

 庭の芝を踏みしめる蹄の音。

 背後から、馬のいななき。


 振り返ると、旅装をまとったニケが馬にまたがっていた。


「悪いね、ニケ。こんなこと頼んでしまって」


 コンラッドが言うと、ニケは静かに首を振る。


「いえ。彼女のこと、気になっていましたから」


 それ以上の言葉はない。


「ウィンが、ちゃんと“おじさん”の家に行けるかどうか、見届けてくれるかい」


 ニケは頷き、馬の腹を軽く蹴る。


「それでは、行ってきます」


 朝日に溶けるように、その背は遠ざかる。


 残された三人は、しばらく動かなかった。


 石畳の上に残る車輪の跡を、風が少しずつ崩していく。

次回、第196話 「翳りの森」 2月17日(火)19:15更新予定

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