194 魔道書の対価
ある日のこと。
ドナルは書斎の椅子に深く身を沈めていた。
外の陽気を拒むように厚いカーテンが窓を覆い、部屋の中はほの暗く、蝋燭の炎だけが小さく揺れている。
震える手の先、机に置かれた剣。
目を向けた瞬間、わかる。
――違う。
聖剣が持つはずの微かな揺らぎが、この剣にはどこにもない。
ロクスファントの神殿と交わした約定。
――魔道書の対価として、キリアンがフォローゼルに遺した聖剣をドナルに渡す。
◇◇◇
時を少し遡る。
ある夜、定例の使いが城外のドナルの館を訪れた。
やって来たのは、聖都ロクスファントにある「原初の神」の神殿に仕える神官――ネイリウスという男。
応接室の長椅子に腰を下ろすと、彼は緑玉が嵌め込まれた一振りの剣を差し出した。
「こちらが、神官長アレイオス様より承りました、魔道書の対価でございます」
その剣を目にした瞬間、ドナルはゆっくりと立ち上がった。
「……渡すと約束したのは、フォローゼルに渡った“エル・カルドの聖剣”だったはずだ。これは、裏切りだな」
上から見下ろすドナルにも、ネイリウスは微動だにしない。
「アレイオス様からのお言葉です。『まがいものには、まがいものを』――と」
ネイリウスは表情を変えず、声を潜めた。
「アレイオス様は、書に手を触れただけで、その内容を見抜かれました」
ドナルの視線が、わずかに揺れる。
「まあ、アレイオス様とお会いになったことがない方は……ね」
ネイリウスは小さく肩をすくめる。
「魔道書の大部分は、確かに正しいものだったようですな。しかし――」
暗い炎が、彼の目の奥で灯る。
「ところどころ……“意図的に”誤った記述が含まれていたと」
ドナルは目を伏せた。
(なぜ、わかる?)
ネイリウスは丁重な物腰で、手を打った。
「私には、何が正しいかは判断しかねますが、アレイオス様は“悪意”を感じ取られたそうです。――もっとも、あれだけの写本を用意するのは大変なご苦労だったでしょう。別途、代価はお支払いします」
合図とともに、二人の従者が重そうな木箱を石床に置いた。金属の触れ合う音が軽やかに響く。蓋を開ければ、中には金貨がぎっしりと詰まっていた。
ドナルの目に嫌悪が浮かぶのを、ネイリウスは見逃さなかった。
「そうそう。アレイオス様はもう一つ、ご所望の品があると。あなた方が使われる孔雀石です。符が刻まれていない、純粋なものを。お手持ちがあれば、ご提供いただきたい」
「何に使うつもりだ?」
ドナルは訝しげに睨みつけるが、ネイリウスの表情に揺らぎはなかった。
「私にはわかりません。ただ、魔道書を読まれて、あなた方が作る“魔道符”に興味を抱かれましてな」
「魔道符を……神官長が?」
沈黙ののち、ドナルは顔を背ける。
「後で用意させよう」
ネイリウスは首をひねった。
「……いかほど、ございましょうか?」
「孔雀石の鉱山も今はない。手持ちは限られている。――それで、例のものは……」
「それでは、こちらで作られた魔道符は、もう結構です。あまりばら撒くと、フォローゼルの奴らに気づかれますゆえ。聖剣の件は、改めてアレイオス様にお尋ねいたします。あの方も、全く話の通じぬ方ではありませんので」
そう言って、ネイリウスは軽やかに立ち上がり、部屋を後にした。
馬車に乗って走り出すと、館の遠ざかる姿は、再び霧の向こうにかき消えていった。
馬車の中で従者は背中を丸め、声をひそめる。
「あのエル・カルド人は、内心かなりお怒りのようでしたな」
孔雀石の入った箱が足元で揺れ、従者は慌てて身を縮める。
ネイリウスは薄い唇を歪めた。
「アレイオス様に比べれば、恐れるに足りん。少なくとも、あの男は人間だ」
◇◇◇
残された剣を手に、ドナルは老人グリゴールの部屋を訪ねた。
蝋燭を掲げ部屋へ入ると、老人は寝台に身を起こす。
灯りに揺れるドナルの顔を見るなり、老人は取引が失敗に終わったことを察した。
ドナルが淡々と事の顛末を語ると、グリゴールは小さく息をつき、肩を落とす。
「……相手を見誤りました。私の責任です」
本来、魔道とは無縁なはずのロクスファントの神官長が、魔道書を求めてきたこと。その書の誤りに気づいたこと。さらに、孔雀石を欲したこと――。
それは、魔道を“理解している者”の振る舞いにしか見えなかった。
だが、そんなはずはない。
――魔道を知る者が、外にいるはずなど。
沈黙を続ける老人に苛立ちを見せながら、ドナルが吐き捨てる。
「……グリゴール。聖剣なしに、結界を張る方法はあるのか」
「小規模なものでしたら、この館のように孔雀石だけでも可能です。ですが広範囲となれば、それなりの大きさの孔雀石も必要ですし、あの“流刑地”ほどの規模が限界でしょう。それでも、生活していけるのは……」
「いざとなれば、それもやむを得んかもな」
グリゴールは顔を上げる。
彼の目の前に立つのは、アレスルを継いだ者。
「――何なりと、お申しつけください。旦那さま」
蝋燭の炎が揺れ、ドナルの影が壁に大きく伸びた。
次回、第195話 「小さな旅立ち」 2月14日(土)11:00更新予定




