193 フィオンの夢
オットーは胸を張って語った。
「彼に教えたのは、木蔦の薬の作り方だけじゃないよ。暗殺によく使われる毒の見分け方や、青芥子のこととか……」
「青芥子……」
フィオンは、ぽつりと呟き唇を震わせる。
次の瞬間、その目から涙がこぼれ落ちた。
メイヴは慌てて手巾を差し出し、戸惑いながら声をかけた。
「どうしたの? どこか痛いの?」
フィオンは首を振りながら、手巾で顔を押さえた。
「……違います。僕は……青芥子を、ディラン様に……」
「“アオケシ”って何?」
メイヴが首をかしげてクラウスに目を向ける。
「帝国の兵士たちが痛み止めや眠り薬として使っている薬です。扱いが難しいので、本来医者しか所持できないんですけどね」
「難しいって?」
「量を誤れば、呼吸が止まってしまうそうです」
メイヴは目を見開き、叫び声を上げた。
「ちょっと! そんな危ないものを、ドナルはこの子たちに使わせたの?」
そして、グレインネに顔を向ける。
「信じられない! 母さん、何とか言ってやってよ」
「メイヴ、他家の事情に口を挟むのはおやめ。あんたは、このルーイって子に薬のことを教えてやりな」
グレインネの言葉に、メイヴは唇を噛んで黙り込み、小刻みに震えるフィオンの背中をそっと撫でる。
「泣いてても仕方ないわ。お茶でも飲んで落ち着きなさい、ね」
メイヴは二人をテーブルへ促し、リンゴ草の香り漂う茶を淹れる。湯気の立つカップと蜂蜜の瓶を前に、フィオンは小さく鼻をすする。
オットーはうなずき、フィオンを優しく見つめた。
「大丈夫だよ。ディランには、青芥子の扱いをきっちり教え込んであるから。私ですら分からないような微かな匂いも、彼は見分けていた」
オットーの言葉にも、フィオンの涙は止まらなかった。
「それで、あなたはどうしたいの?」
メイヴの問いに、フィオンはただ、顔を伏せることしかできなかった。
窓から一筋の風が吹く。
卓上に、無造作に置かれたオットーの症例集が一頁、カサリと音を立てた。
フィオンは顔を上げ、風に揺れる文字に目を落とす。
「これ……共通語ですね。医学書でしょうか?」
「あら、読めるの?」
「ほんの少しですが」
「本当か?」
クラウスが身を乗り出す。フィオンが頷くと、彼は思わず包帯を巻いた手を叩いた。
「――よし、助かった! 翻訳した文章を書き写してくれる人を探していたんだ」
「え、でも僕はまだ……」
「わからない事は、これから覚えればいいさ。私の言葉通りに書いてくれればいいよ」
膝の上で、フィオンの手が震える。
クラウスは顔を歪ませながら手をさすった。
「エル・カルドには無い語彙も多いから、メイヴさんと相談しながら進めるんだ」
「……本当に、僕でいいんですか?」
「見てくれ、この手。字を書きすぎて痛くてたまらんのだ。頼むよ」
◇◇◇
その日の午後、フィオンの手元に落ちたインクが白紙を黒く染めた。
(また……やってしまった)
顔を上げると、窓の外ではルーイがメイヴの手伝いをしているのが見える。
「大丈夫、大丈夫。紙ならまだある」
クラウスが笑いながら言う。
「君、紙に文字を書くのは初めてかい?」
「はい……申し訳ありません」
「気にするな。紙は高価だが、失敗しながら慣れていくしかない。オットーの“ミミズ文字”を見たら、自信が湧いてくるぞ」
フィオンは思わず吹き出した。
「あれでも、宮殿つきの医者なんだよ。考えが速すぎて手が追いつかないらしいよ。私には、落ち着きがないだけに見えるけどね」
その声に反応して、オットーがぬっと顔を出した。
「おい、クラウス。私がエル・カルドの言葉を知らないからって、自分が何を言われているのか、分からないわけじゃないぞ」
「ばれたか」
笑いながら新しい紙を手渡すクラウスの顔に、フィオンも自然と笑みを浮かべた。いつの間にか、体の緊張がほぐれていることに気づいた。
姿勢を正し、再び筆をとる。クラウスの声に沿って、ペン先の音が静かな部屋に心地よく響く。
「……できました」
クラウスは紙に目を通し、満足そうにうなずいた。
「うん、上出来だ。続きも頼むよ」
フィオンは少し肩の力を抜いて、クラウスを見つめた。
「クラウス様は、どうやってエル・カルドの言葉を学ばれたのですか?」
「ディランから教わったんだ。帝都にはいろんな人が集まるが、エル・カルド人は少なくてね。私は彼にしつこく食らいついて教えてもらったよ。行く先々で待ち伏せしたりしてね」
「なぜ、そこまで……?」
クラウスは笑いながら、窓の外に視線を移す。
開け放たれた窓から、初夏の風が流れ込む。
「外の世界を知りたかったんだ。帝都以外の場所をね。――神秘と伝説の国、エル・カルド。まさか実際に来られるとは思ってなかったよ」
「……外の世界……」
その言葉に、フィオンの胸にかすかな震えが走る。かつて、ディランに嘘をついたときのことがよみがえった。
『共通語を学びたいのは、外の世界に興味があるから――』
クラウスは、フィオンの肩に手を置いた。
「君も行けるさ。君なら、どこへだって行ける」
次回、第194話 「魔道書の対価」 2月12日(木)19:15更新予定




