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エル・カルド(失われた聖剣)  作者: 夜田 眠依
第二十五章 生々流転
209/228

199 それぞれの朝

 帝都の朝は、“暁の女神の鐘”で始まる。


 澄んだ鐘の音が朝焼けに溶け、石畳の街路を伝って広がっていく。煙突からは細い煙が立ちのぼり、通りには仕事へ向かう人影が長く伸びる。


 ゼーラーン家の中庭では、朝露に濡れた薔薇が静かに咲いている。淡紅の花弁に光が宿り、滴がきらりと震えた。

 

 花壇の前に、しゃがみ込んでいるのはエディシュ。


 エル・カルドの言葉を教えてくれる者は、いまだ見つからない。帝都は広い。だが、その言葉に応じる者はどこにもいない。


 背後で足音がした。


 身支度を整えたコンラッドが、中庭へ出てくる。


「朝から難しい顔をしているね」


 エディシュは顔を上げ、立ち上がった。


「ねえ、お兄ちゃん。ディランはいつ帰ってくるの? 他に言葉を教えてくれる人、全然見つからないんだけど」


「アラナ夫人か、ウィラード殿下は?」


「さすがにそれは……」


 風が薔薇を揺らす。花弁がひとひら、足元へ落ちた。


「いっそ先にエル・カルドへ行って、クラウスに教わる?」


「それも迷惑でしょ。あの人だって暇じゃないもの。……そういえば、クラウスもエル・カルドの言葉を覚えたくて、ディランにずっとつきまとっていたっけ」


「“つきまとう”は言い方が悪いよ。熱心だっただけだ」


 エディシュは大きく息を吐く。


「あー、もう! 辺境からディルムラートへ行くだけなのに、どうしてこんなに時間がかかるのよ」


「ジーンの見立てでは、隊商と一緒に動いているらしい」


「隊商? どうして?」


「護衛が必要な同行者がいるんじゃないか、って」


 沈黙が落ちる。


 エディシュは視線を彷徨わせる。


「……シルヴァが言ってたの。ディランが東国のお嬢さんを連れていたって。その人のことかな?」


「東国の……お嬢さん?」


「聞いてない?」


「話すことが多すぎて、そこまでは」


 東国――。


 バシリウス王子が東国の女性を側に置いているという報告書が、脳裏をよぎる。


 だが、それが同一人物とは限らない。ディランはドナルの館へ潜入していたのだから。


「ウィラード殿下も、じきエル・カルドへ戻られる。アラナ夫人に伝手があるかもしれない。一度、面会してみたら?」


「……そうね」


「私も一緒に行くから」


「うん」


 ウィンのことは話しておくべきだろう。彼女を帝都へ連れてきたのは、ウィラードなのだから。


 そのとき、オーレリア夫人の声が庭へ響いた。


「ふたりとも、朝食ですよ」


 屋敷へ戻ろうとしたコンラッドの耳に、夫人の独り言が届く。


「ウィネスちゃんがいなくなって、なんだか寂しいわね」


「……そうですね」


 コンラッドは足を止める。


 母の横顔には、うっすらと皺が刻まれていた。どこか疲れて見える。


「あのくらいの歳なら私たちのことも、いずれ忘れてしまうでしょうね」


「……そうかも、しれません」


 オーレリアは薔薇の蕾を見つめ、ふいに思い出したように言う。


「そうそう。ヒューゴが、あなたの縁談を山のように持ってきたのだけれど」


「叔父上に任せます」


 あまりに迷いのない返答。


 オーレリアは首をかしげる。


「それでいいの?」


 コンラッドは目を伏せ、短くうなずいた。


 ジーンからは『恋をしなさい』と言われた。だが、その言葉はどこか遠い。


 レオナへの後悔が、胸の奥で静かに疼く。


 顔を上げると、朝日が昇っていく。


 彼は辺境へ続く南の空を見つめた。


 風が吹き抜ける。


 ――ディラン、早く帰っておいで。


 君のいない間に、帝都ではいろいろあった。話したいことが山ほどある。


 コンラッドは朝日に背を向け、屋敷へと入っていった。



 ◇◇◇


 

 同じ空の下、遥か南。


 目印の山(ヴィドリヴォ・ゴーラ)では、賑やかな朝が始まっていた。

 

 出発前の山宿近く。


「うわ! ミミズのおばけ!」


 マルコの悲鳴が、朝露の草むらに響く。


 太いミミズが、ぬらりと身をよじっている。


「気持ち悪い! 山のミミズって、何でこんなに大きいんですか!」


「何が“ミミズのおばけ”だ。それくらい、クラーリク村にもいただろう。いちいち騒ぐな」


 ディランの冷たい一言に、マルコは頬を膨らませる。


「僕は町育ちなんです!」


 その横で、ユーシャスは枝にミミズを引っかけ、揺らしていた。


「マルコ。これを乾燥させると、熱冷ましの薬に――」


「いりません! 絶対いりません!」


 即答だった。

 

「そう?」


 少し残念そうに、ユーシャスは草むらへ戻す。


「ユーシャス様の国って、ムカデとかミミズとか、そんな薬ばっかりなんですか?」


「そんなことはないけれど……大陸の植物は、まだよく分からないから」


 そこへ、思い詰めた顔のグイドが剣を携えて現れる。


「なあ、あんた! もう一回、勝負してくれ!」


 ディランは露骨に顔を背けた。


 山越えが始まってから、グイドは何度も挑んできている。


「何度やっても同じだ。今のお前では相手にならん」


「そんなこと言わずに! トーニオさんが、あんたに勝たなきゃアンネッタを嫁にくれないって!」


「なら先にトーニオを倒せ」


 グイドは目を瞬かせ、辺りを見回す。


 馬上のトーニオを見つけ、叫んだ。


「トーニオさん! トーニオさんとこの人、どっちが強いんですか!」

 

「そ、それを俺に聞くか?」

 

「……もしかして、自分も勝てないのに、俺に勝てって言ってるんですか? 酷いじゃないですか!」


 トーニオは顔を背ける。


「うるさい! 半人前にアンネッタはやれん!」


 そこへアンネッタが割って入る。


「父ちゃん、勝手に決めないでよ。あたしはまだ嫁に行くなんて言ってない。ファルカシュへ帰ってから考えるよ」


 グイドの顔が、ぱっと明るくなる。


「え? 帰ってくれるのか?」


「さあね。ほら、出発するよ。山で凍えたいの?」


 アンネッタに急かされ、トーニオが合図を出す。


 馬車の群れがゆっくりと動き出す。


 轍をなぞり、車輪が軋む。


 賑やかな声を引き連れ、隊商は山道を進んでいった。

次回、第200話 「海が返したもの」 2月26日(木)19:15更新予定

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