199 それぞれの朝
帝都の朝は、“暁の女神の鐘”で始まる。
澄んだ鐘の音が朝焼けに溶け、石畳の街路を伝って広がっていく。煙突からは細い煙が立ちのぼり、通りには仕事へ向かう人影が長く伸びる。
ゼーラーン家の中庭では、朝露に濡れた薔薇が静かに咲いている。淡紅の花弁に光が宿り、滴がきらりと震えた。
花壇の前に、しゃがみ込んでいるのはエディシュ。
エル・カルドの言葉を教えてくれる者は、いまだ見つからない。帝都は広い。だが、その言葉に応じる者はどこにもいない。
背後で足音がした。
身支度を整えたコンラッドが、中庭へ出てくる。
「朝から難しい顔をしているね」
エディシュは顔を上げ、立ち上がった。
「ねえ、お兄ちゃん。ディランはいつ帰ってくるの? 他に言葉を教えてくれる人、全然見つからないんだけど」
「アラナ夫人か、ウィラード殿下は?」
「さすがにそれは……」
風が薔薇を揺らす。花弁がひとひら、足元へ落ちた。
「いっそ先にエル・カルドへ行って、クラウスに教わる?」
「それも迷惑でしょ。あの人だって暇じゃないもの。……そういえば、クラウスもエル・カルドの言葉を覚えたくて、ディランにずっとつきまとっていたっけ」
「“つきまとう”は言い方が悪いよ。熱心だっただけだ」
エディシュは大きく息を吐く。
「あー、もう! 辺境からディルムラートへ行くだけなのに、どうしてこんなに時間がかかるのよ」
「ジーンの見立てでは、隊商と一緒に動いているらしい」
「隊商? どうして?」
「護衛が必要な同行者がいるんじゃないか、って」
沈黙が落ちる。
エディシュは視線を彷徨わせる。
「……シルヴァが言ってたの。ディランが東国のお嬢さんを連れていたって。その人のことかな?」
「東国の……お嬢さん?」
「聞いてない?」
「話すことが多すぎて、そこまでは」
東国――。
バシリウス王子が東国の女性を側に置いているという報告書が、脳裏をよぎる。
だが、それが同一人物とは限らない。ディランはドナルの館へ潜入していたのだから。
「ウィラード殿下も、じきエル・カルドへ戻られる。アラナ夫人に伝手があるかもしれない。一度、面会してみたら?」
「……そうね」
「私も一緒に行くから」
「うん」
ウィンのことは話しておくべきだろう。彼女を帝都へ連れてきたのは、ウィラードなのだから。
そのとき、オーレリア夫人の声が庭へ響いた。
「ふたりとも、朝食ですよ」
屋敷へ戻ろうとしたコンラッドの耳に、夫人の独り言が届く。
「ウィネスちゃんがいなくなって、なんだか寂しいわね」
「……そうですね」
コンラッドは足を止める。
母の横顔には、うっすらと皺が刻まれていた。どこか疲れて見える。
「あのくらいの歳なら私たちのことも、いずれ忘れてしまうでしょうね」
「……そうかも、しれません」
オーレリアは薔薇の蕾を見つめ、ふいに思い出したように言う。
「そうそう。ヒューゴが、あなたの縁談を山のように持ってきたのだけれど」
「叔父上に任せます」
あまりに迷いのない返答。
オーレリアは首をかしげる。
「それでいいの?」
コンラッドは目を伏せ、短くうなずいた。
ジーンからは『恋をしなさい』と言われた。だが、その言葉はどこか遠い。
レオナへの後悔が、胸の奥で静かに疼く。
顔を上げると、朝日が昇っていく。
彼は辺境へ続く南の空を見つめた。
風が吹き抜ける。
――ディラン、早く帰っておいで。
君のいない間に、帝都ではいろいろあった。話したいことが山ほどある。
コンラッドは朝日に背を向け、屋敷へと入っていった。
◇◇◇
同じ空の下、遥か南。
目印の山では、賑やかな朝が始まっていた。
出発前の山宿近く。
「うわ! ミミズのおばけ!」
マルコの悲鳴が、朝露の草むらに響く。
太いミミズが、ぬらりと身をよじっている。
「気持ち悪い! 山のミミズって、何でこんなに大きいんですか!」
「何が“ミミズのおばけ”だ。それくらい、クラーリク村にもいただろう。いちいち騒ぐな」
ディランの冷たい一言に、マルコは頬を膨らませる。
「僕は町育ちなんです!」
その横で、ユーシャスは枝にミミズを引っかけ、揺らしていた。
「マルコ。これを乾燥させると、熱冷ましの薬に――」
「いりません! 絶対いりません!」
即答だった。
「そう?」
少し残念そうに、ユーシャスは草むらへ戻す。
「ユーシャス様の国って、ムカデとかミミズとか、そんな薬ばっかりなんですか?」
「そんなことはないけれど……大陸の植物は、まだよく分からないから」
そこへ、思い詰めた顔のグイドが剣を携えて現れる。
「なあ、あんた! もう一回、勝負してくれ!」
ディランは露骨に顔を背けた。
山越えが始まってから、グイドは何度も挑んできている。
「何度やっても同じだ。今のお前では相手にならん」
「そんなこと言わずに! トーニオさんが、あんたに勝たなきゃアンネッタを嫁にくれないって!」
「なら先にトーニオを倒せ」
グイドは目を瞬かせ、辺りを見回す。
馬上のトーニオを見つけ、叫んだ。
「トーニオさん! トーニオさんとこの人、どっちが強いんですか!」
「そ、それを俺に聞くか?」
「……もしかして、自分も勝てないのに、俺に勝てって言ってるんですか? 酷いじゃないですか!」
トーニオは顔を背ける。
「うるさい! 半人前にアンネッタはやれん!」
そこへアンネッタが割って入る。
「父ちゃん、勝手に決めないでよ。あたしはまだ嫁に行くなんて言ってない。ファルカシュへ帰ってから考えるよ」
グイドの顔が、ぱっと明るくなる。
「え? 帰ってくれるのか?」
「さあね。ほら、出発するよ。山で凍えたいの?」
アンネッタに急かされ、トーニオが合図を出す。
馬車の群れがゆっくりと動き出す。
轍をなぞり、車輪が軋む。
賑やかな声を引き連れ、隊商は山道を進んでいった。
次回、第200話 「海が返したもの」 2月26日(木)19:15更新予定




