189 祭りの後
観客の姿が消え去っても、コンラッドは観覧席に座り込み、闘技場を見下ろしていた。
胸の奥には、今日一日の叫び声やざわめき、決断の瞬間――それらが渦を巻くように降り積もり、まだ形を成さないまま沈殿している。
その渦の底では、レオナが一瞬だけ見せたあの寂しげな横顔が、棘のように痛みを刺していた。見えていなかった負い目が、呼吸のたびに絡みつく。
ふと、足元に影が差した。
顔を上げると、夕暮れの光の中に、髪もドレスも乱れたエディシュが立っている。
コンラッドはいつものように、柔らかな笑みを浮かべた。
「……がんばったね」
「ヒューゴ叔父様、泣いてたわ。これでまた嫁に行けないって」
「ウィンは?」
「お母様に飴を買ってもらってるの。壺の男を見つけてくれたご褒美にね」
「そうか……。私も、何か……してやらないと」
観覧席の階段を、小さな足音が駆け上がってくる。
両手いっぱいに飴の入った袋を抱えたウィンが、笑顔で飛び込んできた。
「見て! おばさんに買ってもらったのー!」
「よかったわね」
「おばさんは、ヒューゴおじさんと先に帰ったよー」
ウィンは袋から飴を一つ取り出し、エディシュに差し出した。
「はい、エディシュさん。いっぱい頑張ったから、あげる」
「ありがとう」
エディシュは飴を摘まみ、口に入れた。
優しい甘さがじんわりと広がり、冷えた胸の内がわずかに和らぐ。
「コンラッドさんも、はいっ」
小さな手から転がされた飴玉が、彼の掌にのった。
それは夕陽の光を閉じ込めたかのように、淡く輝いている。
「ありがとう。ウィン」
コンラッドが飴を口に含むと、ウィンは満足げにぱっと駆け出していった。
その後ろ姿を眺めながら、エディシュはためらいなく兄の隣へ腰を下ろす。
風が穏やかに吹き抜け、二人の沈黙をそっと受け止めた。
「……さっき、リコ隊長が来てたの。ウィンの親族が見つかったって」
「……本当か」
「辺境のサマールって国の人だって。建国祭に来てるらしくて、近いうちに会いに来るの。……優しい人だといいけど」
自分の影を踏んで遊ぶウィンの姿を、コンラッドは静かに目で追った。
幼い頃、何も恐れず、ただ笑うだけで一日が満ちていたあの時間。
もう二度と戻らないと分かっていても、記憶は甘く胸を刺す。
飴の甘さが名残のように舌に残り、渦巻くほろ苦さと混じり合って、言いようのない感情を作り上げた。
彼はそっと目を細め、夕陽に染まるウィンに向けて声を放つ。
「……ウィン、帰ろうか」
町がゆっくりと影に沈むころ、三人は馬車に乗り込んだ。
車輪の音が闇へ溶けていく。
家路へと向かうその道のりは、今日の騒ぎが嘘のように静かだった。
通りの家々には、優しい灯りが一つ二つと点り始めていた。
◇◇◇
夜の冷えが石造りの宮殿に染み込み、灯りのともった皇帝執務室には静けさが濃く漂っていた。
その静寂の中で、アルドリックが葡萄酒のグラスを指先で揺らしている。
赤紫の液体が蝋燭の光を受けて複雑にきらめき、彼の横顔に短い影を落とした。
「いやあ、今日は盛り上がったな。見応えあったよ」
「“あった”で済まさないでください。一時はどうなることかと……」
ジーンもまたグラスを手に、天鵞絨張りの長椅子へと静かに腰を降ろす。
衣擦れの音が、部屋の重たい空気をわずかに揺らした。
「それにしても、あの変な壺の中身。結局なんだったんだろう?」
「粉末状の何かですが、正体はまだ不明です。誰かに調べさせましょう」
アルドリックはグラスを卓上に置き、指で眉間を押さえた。
「エブロも始末されたって話だし……また振り出しか。アラナが狙われたかと思ったら、今度は剣闘会での大騒ぎ。姿を見せない本体の狙いは、いったい何なんだろうな」
揺れる蝋燭の炎にグラスをかざし、ジーンは目を細める。液体の中をかすかな澱がゆったりと漂っていた。沈むのを待ち、口に寄せようとしたが、その手が止まる。
「……もしかしたら、騒ぎを起こすこと自体が目的なのかもしれませんね」
「騒ぎ?」
「ええ、この帝国を揺さぶること。――とにかく、壺の中身が何か判明しない限り、核心には近づけません」
「アマゾアナの女はどう見る?」
「ただの陽動でしょう。壺を仕掛けるための。彼女が自らの意思で、計画の一端を担っていたとは思えません。……とはいえ、話は聞いておきましょう」
アルドリックは、にやりと口角を上げる。
「お前さんのことだから、もう大体読めてるんじゃないの?」
「買いかぶりですよ。私は魔道士でも預言者でもありません。ただ……」
「ただ?」
「エブロを始末したということは、相手も動きを変えてくるかと。鍵は壺。あれで何をしようとしていたか……ですね」
アルドリックは長椅子の背にもたれ、乾いた笑いをひとつ漏らした。
「呪いとかだったら、やだな」
その声音には冗談めいた軽さと、拭えない警戒が半分ずつ混ざっていた。
その時、扉を叩く控えめな音が響く。
衛兵が来客を告げる。
ジーンはその名を聞き、すっと立ち上がると壁際へ下がった。
アルドリックが返事をすると、扉が静かに開く。
現れたのは、立派な衣服を身にまとい、赤みがかった金髪を一筋の乱れもなく整えた男だった。
男は芝居がかった身のこなしで、アルドリックの前に丁寧にひざまずいた。その所作は完璧で、呼吸の音すら整っている。
「クラヴァ公グスタフでございます。陛下におかれましては、ますますご健勝のこと――」
丁寧な言葉とは裏腹に、その眼差しには恭順の色は欠片もない。
彼の背後には、一人の若い女性が控えていた。
金色の巻き毛が揺れ、すらりとした姿は一輪の花のような気品をまとっている。だがジーンの目には、その美しさは、どこか作り物めいて見えた。
「こちらは娘のアストリッド。さあ、ご挨拶なさい」
彼女は一歩進み出て、滑らかに膝を折った。
蒼玉のような瞳がアルドリックへ向けられ、その動きに合わせて淡い香油の薫りが部屋に漂う。
「陛下、ご無沙汰しております」
「よく来てくれた。ずいぶん大きくなったね」
「前にお目にかかったのは、レオンハルト殿下のご成婚の折でしたから」
「もう、七年にもなるか。今回はゆっくりしていくといい」
「はい。父からも、そのように申し付けられております。陛下のご意向のままに」
二人はジーンに目を向けることすらなく、そのまま優雅に退室していった。
扉が閉まると、室内の空気がわずかに重く沈む。
「……クラヴァの姫でしたか」
「うん。剣闘会にも誘ったんだけど、そういうのは趣味じゃないらしくてね」
ジーンは長椅子に戻り、揺れる蝋燭の炎を一瞥した。
「クラヴァ公は何をお考えで?」
アルドリックは笑みを深め、手の中のグラスをくるりと回す。
赤紫の液体が円を描き、彼の瞳に怪しい光を映した。
「花婿探しだよ。可愛さのあまり、これまで嫁に出されなかったお姫様。そろそろいいだろうって」
「クラヴァ公といえば、かつては陛下と皇帝の位を争われた方では?」
ジーンの眼差しに警戒の色が混ざる。
揺れる蝋燭の煙が二人の間をかすかに漂った。
「そんなこともあったかな。でも、彼は俺より年上だよ。今さら、帝位なんかに興味あるかな?」
「人の恨みというものは、簡単には消えませんよ」
「恨み……か」
その瞬間、風もないのに蝋燭の炎がふっと揺れた。
揺らぎは一瞬だけ二人の顔を明るく照らし、すぐにまた陰を落とす。
その予兆めいた光は、まるで次に訪れる波を静かに告げているかのようだった。
次回、第190話 「女戦士たちの夜」 2月3日(火)19:15更新予定




