187 異国の戦士
名前を呼ばれると、コンラッドは静かに闘技場の中央へと歩み出た。
反対側の控え室から、アイルがゆるやかに姿を現す。陽光を浴びた兜の縁が、鈍く光を返した。
急な辞退者の出現により、この一戦に勝てば次はスカルギ。――彼が控えていると思うと、少し気が楽になる。
コンラッドは剣を抜き、低く構えた。
アイルも無言で剣を引き抜き、砂を踏んでじわじわと間合いを詰めてくる。
張り詰めた空気。
観客のざわめきが遠ざかり、世界が音を失う。
金属が擦れ合う小さな音――そして、一閃。
空気が裂けた。
思わず息を呑む。
――大きい……。
間近で見るアイルは、コンラッドより一回りも体格が勝る。スカルギと変わらぬ巨体が、驚くほど軽やかに動いた。
刃が閃き、金属が悲鳴を上げる。
だが、腕に伝わる衝撃が、なにやら予想と噛み合わない。
わずかな違和感が胸に沈む。
二合、三合――火花が散り、刃と刃が軋み合う。
息が熱を帯び、砂の匂いが鼻を刺す。
押し合う力の均衡が崩れた瞬間、アイルがふっと力を抜き、流れるように切り込んできた。
右へ流し、体を捻って受け流す。砂が跳ねる。
すぐさま次の一撃。
刃と刃がまた噛み合い、火花が弾けた。
兜越しに視線がぶつかり、息と息が触れるほどの距離。
「……お前、なかなかやるな」
その声に、コンラッドは目を見開いた。
兜で顔は見えない――それでも、確信する。
女の声だ。
コンラッドは、息を抑えて囁く。
「……なぜ、あのような酷いことを?」
金属の内側で、短く鼻息が漏れる。
次の瞬間、嘲るような笑い声が響いた。
「あんな怪我? 子を産むよりよほど楽だ」
次の瞬間、アイルは剣を押しやり、肩をぶつけてくる。
先ほどコンラッドが使った戦法だった。
一瞬よろめき、踏みとどまりながら斬り返す。
火花が散る。砂塵が舞う。
――この女、実戦の場数が違う。
アイルの口元に、獰猛な笑み。まるで好みの獲物を見つけた猛獣だ。
そのまま、自分の兜をつかみ、勢いよく放り投げた。
甲高い音を立てて兜が砂を転がり、闘技場に一瞬、沈黙が落ちた。
風が髪を揺らし、両頬に黒い入れ墨を刻んだ女の顔があらわになる。
「帝国の兜なんて、邪魔なだけ!」
その異様な姿に、観覧席がざわめいた。
ざわめきが波のように広がり、驚愕が人々の顔を塗り替えていく。
特別席では、レダ妃とエイリーク王子が息を呑んでいた。
「叔母上……あの女は……」
「ああ……“アマゾアナ”の血だ」
「どうして彼女のような者が、ここに……?」
ベラノーシュには古来より、異民族の村が点在していた。
ほとんどは古帝国の疫病で絶えたが、北方の海に浮かぶ島には、いまだ“アマゾアナ”が息づいている。
アルドリックが興味深げに身を乗り出す。
「“アマゾアナ”って、女だけで暮らしてるってやつ?」
レダ妃は口を閉ざし、エイリークが答えた。
「確かなことはわかりません。ただ、若い女性たちは外で金を稼ぎ、子を宿すと村に戻る――という噂は聞きます。ベラノーシュにとっても、あの島は長年、手を出せぬ地です」
「でも、特に害がないなら放っておけばいいんじゃない? 無理に従わせても、うまくはいかないよ」
エイリークも静かに頷いた。
――あの島は、触れれば血を呼ぶ。誰もがそう感じていた。
◇◇◇
一方その頃、観覧席の下。
砂まみれの通路を、エディシュが走っていた。
髪は乱れ、ドレスは破れ、袖は釘に引っかかって裂けている。もはや令嬢の面影などなかった。
細身の靴が足に食い込みながらも、追うべき男を見失うわけにはいかない。
前を駆ける小さな影――ウィンが柱の間を軽やかに抜けていく。
「エディシュさん、こっちだよ!」
「ちょ、ちょっと、待って!」
息が上がる。心臓の鼓動が耳を打つ。
思考の隅に浮かぶ疑問――あの壺は何? あの男は誰?
だが今は、走るしかなかった。
「あいつ、上に行った!」
ウィンが観覧席を指差す。
「行こう!」
二人は幕を押しのけて階段を駆け上がる。
観客のざわめきが渦のように響く中、ウィンが叫んだ。
「あそこ! 壺の男!」
男はすでに反対側の最上段へと回り込んでいた。
闘技場の中央では、まだコンラッドとアイルが斬り結んでいる。
「これ、借りるわ!」
エディシュは近くの衛兵から弓をひったくった。
弓兵としての体の記憶が、一瞬にして甦る。
もしかすると、罰せられる。
――それでも、震える指で矢をつがえ、風を読み、狙いを定めた。
男の走る先。
観覧席の切れ目の階段。
息を殺し、弦を引き絞る――放たれた矢が鋭く空気を裂いた。
矢は男の足元に突き刺さり、彼は壺を抱えたまま階段を転げ落ちる。
鈍い音が響き、観覧席から悲鳴が上がった。
コンラッドが一瞬、そちらに視線を向ける。
倒れた男。矢。反対側には得意げに弓を構える妹――エディシュ。
すべてを悟った彼は、剣を手放し、アイルに背を向け走り去った。
砂地を蹴り、闘技場の壁に手をかけ、観覧席へと跳び上がる。
階段を駆け登り、壺を抱えて起き上がろうとする男の前に立ちはだかった。
ざわめきが怒号へと変わる。
――闘技場を離れる、それは即ち敗北。明確な規定違反だ。
逃げようとする男を押さえつけ、抱えていた壺を奪い取る。
その背へ、アイルの声が飛んだ。
「逃げるな、卑怯者!」
彼女も観覧席へ跳び上がり、押さえ込まれた壺の男を睨みつける。
「こいつか……試合を台無しにしたのは!」
怒りに任せて男へ掴みかかるアイルを、衛兵たちが慌てて引き剥がした。
観覧席は大混乱に陥り、秩序は完全に崩壊した。
一方、闘技場の中央では審判団が慌ただしく協議を始めている。
男は連行された。
アイルの怒りはまだ鎮まらず、衛兵たちが必死に彼女を宥めている。
その喧噪の中、コンラッドは観覧席の階段に座り込み、一歩も動けなかった。
剣は、あの砂の上――まだ闘技場の中央に転がったままだ。
肩で荒い息をつきながら、ただそれを見下ろす。
太陽に照らされた刃が、鈍く光を返す。
鎧の中で、体は血の気を失っていく。
観客のざわめきも、審判の声も、遠く霞んで聞こえた。
「……勝者、アイル!」
その宣告に、観覧席がどよめく。
抗議の声、怒号、怒りと混乱。
けれど、コンラッドの視線はただ、砂の上の剣に縫い付けられたままだった。
――あれはもう、自分の手の中にはない。
その事実だけが、静かに胸の奥を締めつけた。
次回、第188話 「戦士の望み」 1月29日(木)19:15更新予定




