186 血と飴玉
コンラッドは控え室の長椅子に腰を下ろし、うなだれたまま動かなかった。
その目は乾いた土床を見つめている。土の粒が、試合の熱を吸って白く乾き、ひび割れていた。
――その時だった。
闘技場の方角から、鋭く裂けるような悲鳴が響いた。続いて怒号、怒濤のような観客のざわめき。
何かが起きた――尋常ではない。
控え室の扉が音を立てて開き、戸板を抱えた数人の兵士が駆け込んできたかと思うと、コンラッドの目の前を通り過ぎて闘技場へと走って行った。
「治療室まで運んでる時間がもったいない! ラド先生を呼べ、重傷だ!」
薬箱を小脇に抱えて、医師ラドがすぐに控え室へ現れた。その直後、うめき声と共に男が戸板に乗せられて運び込まれた。
彼の左腕は不自然に曲がり、どこからか流れた血が、戸板にまで広がっている。
「い、痛ェ……っ、あああっ!」
ラドは迷いなく青い小瓶を取り出し、コップの水に匙で垂らした。素早く混ぜながら、男の側へ膝をつく。兵士たちが暴れる男の肩を押さえ、ラドが兜を脱がせると、中から現れた顔は腫れ上がり、鼻梁が潰れていた。
その光景に、コンラッドの喉がひりつく。
ラドは男の頭を起こす。
「これを飲め。すぐに痛みは引く」
男は数口を飲むと、呼吸が落ち着き、力が抜けるように脱力していった。
コンラッドは深く息をついたが、その様子から目を離せなかった。
――まるで、昨日の自分を見ているかのようだった。
あの時も、声が遠ざかっていった。
ラドは男の鎧を脱がせ、素早く状態の確認をする。
「……これはひどい。左腕は、骨が砕けているかもしれない」
処置を終えると、ラドは立ち上がり、短く指示を飛ばした。
「よし、すぐに治療室へ運べ!」
戸板ごと男は再び運び出され、ラドはその後を追って控え室を後にした。
鉄と血の匂いが鼻腔に残り、胃の奥が冷たく沈む。
遠ざかる足音が、やけに長く響いた。
嵐のような騒ぎが収まると、コンラッドの肩が緩む。
残されたのは、荒れた土床と、ぴりついた空気だった。
たかが試合に、ここまでの仕打ち――。
一体、どんな相手なのか。
コンラッドは歯を食いしばった。レオナのことに気を取られて、さっきの試合を見ていなかった自分を悔やむ。
この先、自分が勝ち進めば、その男と戦うことになる。気を引き締め直さねばならない。
そこへ、書類を抱えた係員が小走りで近づいてきた。
「次の試合ですが――相手選手が辞退されました。不戦勝となります」
「……不戦勝? なぜ?」
問いかける間もなく、係員は他の選手の元へと走って行ってしまった。
コンラッドは誰もいない空間を、言葉もなく見つめていた。
体力温存という点ではありがたいが、不可解な事態に胸がざわつく。
ほどなくして、スカルギが険しい顔をして戻ってきた。
「おい、コンラッド。さっきの試合を見たか?」
「いや……負傷者が運ばれるのを見ただけで。けど、次の試合は不戦勝になったから、もしかしたら今度は……」
「当たるぞ」
「え?」
「向こうの対戦相手も辞退したらしい。つまり、お前の次の相手は“アイル”という奴になる」
コンラッドは、控え室の壁に貼られた対戦表を見直す。“アイル”という名に見覚えはない。スカルギも首を傾げる。地方から出てきた新顔か。
「なんで皆、辞退するんだ?」
スカルギは、眉を深く寄せた。
「相手が“まとも”じゃないからだ。噂じゃ、そいつには騎士の理が通じんらしい」
「でも、トラシュマコス王太子も最初にそいつと戦ってたけど、普通に戻ってきたよ?」
スカルギは、言いにくそうに口ごもる。
「それは……あれだ。実力差がありすぎたんだろう。あっという間に終わっていたからな。さっきの奴は、なかなかの腕だった」
コンラッドは背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。
◇◇◇
風が頬を撫で、汗の塩気を攫っていった。
闘技場の熱気が遠のき、体の熱も収まってくる。
エディシュは見回りに飽きたウィンに付き合い、外の人波の中を歩いていた。隣ではウィンが、露店の並ぶ道に目を輝かせている。
「エディシュさん、あれ何?」
ウィンが指さす先には、店先のガラス瓶に詰め込まれた飴玉が、宝石のように光を受けてきらきらと輝いている。
「ああ、あれは飴よ」
「“あめ”?」
「甘くて美味しいわよ」
砂糖蕪の汁を煮詰めて作る飴は高価であり、かつては薬であった。普段であれば、露天で売るような品物ではない。闘技場に集まる、身分ある人々を当てにしたものなのだろう。
「エディシュさん、あれほしい!」
「ごめんね、あたし、今お金を持ってなくて……。さっき、お兄ちゃんのご飯を買うのもジルに頼んだし」
「えーっ!? 大人なのにお金持ってないの?」
目を丸くするウィンに、エディシュは口ごもりながら視線を逸らす。
「持ってないっていうか、財布を持ち歩く癖がなくて……。実は……屋台で買い物したことなくて……」
「しんじられない!」
「どうしてもっていうなら、ヒューゴ叔父様に……」
「もういい、自分で何とかする」
そう言ってウィンは、いきなり地面にしゃがみ込んだ。
「ウィン、なにしてるの?」
「お金、落ちてないか探すの」
「ちょっと、やめなさい。はしたないわよ」
エディシュの制止にも耳を貸さず、ウィンは地面を這い、やがて観覧席の下に伸びる布の幕をめくって中に入ってしまった。
衛兵たちも周囲にいたが、エディシュと一緒にいると知っているからか、誰も注意はしなかった。
エディシュはひとつため息をつき、小声で「もぉ……」と呟きながら、そっと幕の下に身をかがめて入る。
中は、縄で補強された木柱が立ち並び、その上には観覧席の底板が組まれている。隙間から差し込む光が、砂の床に細く筋を描いていた。
身をかがめ、柱の間を抜けながら、エディシュは呼びかける。
「ウィン、そんな所にお金なんて落ちてないって」
「でも、ここお金持ちがいっぱい来てるんでしょ? 上から落ちてくるかも」
「そういう人はね、自分では持たないのよ」
「え〜、つまんない」
突如、会場全体に地鳴りのような振動が響いた。
エディシュは観覧席の底を見あげ、耳を澄ます。――棄権があったらしい、思ったよりも早く試合が進む。コンラッドの名が呼ばれた。
「え、嘘! ……お兄ちゃんの試合が始まるわ。ウィン! お金は、誰かに借りるから出ましょ」
「はーい」
ウィンが渋々戻ってきた、その瞬間だった。
幕の影から、ふいにひとりの男が姿を現した。仮面で顔を隠し、手には奇妙な壺を抱えている。
目が合う。
二人の間に、陽にきらめく土ぼこりが舞った。
エディシュの目が、男を見逃さなかった。
声を発しようとした刹那、男は壺を強く抱え込み、視線から逃れるように駆け出した。
「待ちなさい!」
エディシュは、本能的に男の後を追っていた。
次回、第187話 「異国の戦士」 1月27日(火)19:15更新予定




