185 仮面の下
控え室で名前を呼ばれた瞬間、コンラッドは静かに立ち上がった。
薄暗い天井の低い部屋から外へ出た途端、闘技場の光が視界を焼く。
肌を刺すような熱気。焼けた砂が照り返し、息を吸うたびに喉が乾いた。
観客の歓声が波のように押し寄せる中、ゆっくりと中央へ歩み出て面頬を下ろす。
仮面の男もまた兜を被り、砂地を踏みしめていた。
審判の合図。
二人は同時に剣を抜き、静かに構える。
会場が息を呑むように静まり返る。
そして、次の瞬間――掛け声とともに男の剣が閃き、観客席から大きな歓声が上がった。
鋭い剣だ――。
剣を交えながら、コンラッドの頭にかすかな記憶がよみがえる。
いつだったか。あの剣筋に見覚えがある。
だが、考える余裕など与えられない。剣と剣がぶつかり合い、火花が散る。
金属のきしむ音が、耳の奥に刺さる。
互いに剣を組ませ、力で押し合う。
コンラッドは全身に力を込め、押し返した。
兜の中で呼吸が荒くなり、鼻から汗がぽたりと落ちる。
一瞬の距離ができた隙に、コンラッドは横に払った。
だが、相手もすぐに後退し、間合いを保つ。その動きには、焦りも隙もなかった。
――強い。
背を流れる汗が、冷たくなっていく。
体調が万全ではない今、長引けば分が悪い。
普段なら、この剣戟の高揚を味わいたいところだが――今は違う。
勝負を決める。
踏み込む。
剣を合わせながら、肩で相手の体にぶつかっていく。
実戦向けの、反則ぎりぎりの技であった。
おそらく、この相手はそういった手に慣れていない。
予想通り、相手はわずかに重心を崩す。
間髪入れず、下から打ち上げる。男の剣が宙に舞い、回転しながら高く上がり――
砂地に突き刺さる音が、熱気の中にはっきりと響いた。
一瞬、歓声が凍る。
そして、波が返るように喧騒が広がった。
「やっぱり、だめだったか」
聞き慣れた声に、コンラッドは目を見開いた。
――やはり、この人だったか。
「お怪我はありませんか? ……殿下」
「ああ、バレてたんだね」
相手の男――レオンハルトは兜と仮面を外し、フードに押し込んでいたプラチナブロンドの髪をふわりと背に流した。
手を上げて観客席を見渡すと、どよめきが走る。
そして、まばらな拍手が徐々に広がり、やがて会場全体に歓声が満ちていく。
「レオンハルト殿下!」
「殿下ー!」
敗者であるはずの男の名が、まるで勝者のように連呼される。
その光景を、特別席からアルドリックが笑みを浮かべて見守っていた。
「面白いじゃないか。あいつ、たまにはいい演出をするね」
「レオンハルトが出るなら、私も出ればよかった」
横でエイリークが悔しそうに呟く。
「こういうのは、たまにだから意味があるんだよ。王族ばかり出たら、観客も醒める」
― 観覧席 ―
一角の高い席で、フードのついたマントをまとった男が、年老いた従者と共に試合を見下ろしていた。
顔は布製の仮面で覆われ、口元しか見えない。
身分のある者だけが入れる観覧席。仮面姿も珍しくはないため、彼は特に目立つ存在ではなかった。
ただ、その頬には赤みがかった金髪が一房揺れている。
「いい盛り上がりだ。観客も、衛兵も夢中になってる」
「まもなく、あいつの出番です」
「……もう少し観戦を楽しませてもらおうか」
― 控え室 ―
歓声がまだ遠くから響いていた。
コンラッドが一人で座っていると、静かに現れたジーンがエールを手に差し出した。
「お疲れさま。よく戦ったね」
「……ありがとうございます」
ジーンは隣に腰を下ろすと、少し声を落として言った。
コンラッドは背中の汗が急速に冷えていくのを感じた。
「レオナを確保したよ」
思わずジーンの顔を見返す。
レオナの名は、まだ誰にも伝えていないはずだった。
「安心していい。エブロの件については、無関係だった」
その言葉に、コンラッドは内心、静かに安堵する。
「……では、なぜあんな真似を?」
ジーンはわずかに視線を逸らした。
珍しく言葉を選ぶような間があった。
「彼女は、君に……好意を抱いていたんだと思う」
その言葉に、コンラッドは目を瞬かせる。
「まさか。私たちは、そういう関係では……」
「君にとっては、ね。でも彼女にとっては違ったんだ。心を寄せる理由が、彼女にはあった」
手にしたエールの表面が波打つ。
「だとしても、薬を盛る理由には……」
ジーンの口元が歪んだ。
「わからないかい? 君が剣闘会に出れば、彼女にはもう手の届かない存在になるように思えたんだ。……事実、君の親族のもとには、縁談が殺到している」
「そんなつもりは……。私はむしろ、寡婦だからこそ、彼女とは感情を抜きにして接せられると……」
「君はね。でも彼女は、そうじゃなかった。――彼女の親族に連絡を取るつもりだ。ちょうど建国祭に来ているそうだから、引き取ってもらう手はずを整えている」
言葉が、出てこなかった。
「君は気づいてなかったろう」
ジーンはふと目を伏せ、声を落とす。
「彼女の着ていた紺色のドレス、袖が擦り切れていたのを」
「……擦り切れていた?」
「喪に服していたからあの服ばかり着ていたんじゃない。――あれしか、なかったんだよ」
何も見ていなかった自分が、情けなくて仕方がなかった。
あの慎ましやかな振る舞いが、まさか困窮によるものだったとは――。
コンラッドは、反射的に立ち上がろうとした。
「……彼女に謝りに行きます」
「もう君は、彼女に会わない方がいい」
「でも……」
ジーンは柔らかく、けれど突き放すような声で言った。
「世の中の半分は女性だよ。世界は戦や政だけで動いているわけじゃない。……よく覚えておくんだよ」
そして、ほんのわずかの間を置いて――
立ち上がり、去り際に振り返った。
「気持ちは――もう、次に向けなさい」
その声の余韻だけが、控え室に残った。
次回、第186話 「血と飴玉」 1月24日(土)11:00更新予定




