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エル・カルド(失われた聖剣)  作者: 夜田 眠依
第二十四章 建国祭
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184 控え室

 闘技場の控え室には、試合を終えた戦士たちが次々と戻ってきた。勝利の喜びをあらわにする者、肩を落として黙りこむ者、苛立ちを柱にぶつける者、無表情で座り込む者――誰一人として、同じ表情はなかった。

 彼らとともに、陽に焼かれた砂の熱気が日陰の部屋にゆっくりと沈殿していく。


 コンラッドは剣を腰から外すと、椅子に深く腰を下ろした。一回戦にはなんとか勝ったものの、手も足も小刻みに震えている。

 この先、あと何戦持ち堪えられるのか。重くのしかかる不安が、背中にじわじわと広がっていく。


 そこへ、鎧を鳴らしながらトラシュマコスがやってきた。頬はまだ赤く火照り、呼吸も荒いままだったが、足取りは軽い。


「いやぁ、やはり負けてしまった。ここに出て来る連中は違うな」


 言葉とは裏腹に、その顔はどこか晴れやかだった。


「だが、アルドリック陛下がお使いを遣わして下さってな。後日、謁見を賜ることになった。……出た甲斐があった」


「それは……光栄なことですね」


「そなたの言う通りだった。ありがとう」


 ふと、トラシュマコスがコンラッドの顔を覗き込む。


「……大丈夫か? 顔色が優れんようだが」


「ご心配をおかけします。少し体調を崩しただけです」


「本来なら、無理をするなと言いたいところだが……今日はそうもいかんな」


「お気遣い感謝します」


 そのとき、控え室の入口から従者らしき男が遠慮がちに顔を覗かせた。トラシュマコスは立ち上がり、肩に軽く手を置いた。


「では、私は行こう。試合は最後まで見届けるつもりだ。そなたも、しっかり励むのだぞ」


「はい。ありがとうございます」


 トラシュマコスの鎧が柱の向こうに消えると、コンラッドは息を吐いた。

 その頬にはほんのりとした笑みが残ったが、その温もりもすぐに冷えていく。

 静けさだけが、控え室に戻ってきた。


 その頃には、控え室の人影もだいぶまばらになっていた。

 そこへスカルギが、金色の“戦士の証”をなびかせながら入ってきた。顔には気力がみなぎっている。


「今のところ会場に異常はないが、やはり観覧席には手をつけられん。仮面をつけた者も結構いる。出場者の中に何者か紛れ込ませた可能性もあるが、疑い出したらきりがない」


 コンラッドはうなずいた。

 結局、何も掴めないままエブロは殺され、自身はふらふら。剣を持つ感覚すらおぼつかない。


 スカルギが去った後も、試合は滞りなく進んだ。

 負傷者が数名出たため、午後からの試合は十二人で行われることになった。三回戦からは一組ずつの対戦形式となり、これまで見えなかった出場者たちの戦いぶりが、じっくりと観察できるようになる。


 やがて、軽い足音とともにウィンが姿を見せた。両手に包みを抱え、嬉しそうに近づいてくる。


 包みを受け取った瞬間、温かさが掌に広がった。


「ありがとう、ウィン」


「はい、これ。エディシュさんからだよ。飲み物も取ってくるから、ちょっと待っててね」 


 コンラッドがうなずくと、ウィンはうれしそうにエールを取りに駆けていった。

 彼女の向かった先を見ると、控え室の入口の陰から、エディシュがそっとこちらを見ていた。戦場にいたとはいえ、ゼーラーン家の令嬢がこのような場所に足を踏み入れないのは当然だろう。


 包みを軽く掲げ、コンラッドは微笑んだ。エディシュは安心したようにうなずき、ウィンと並んで姿を消した。

 ――静けさが戻る。小さな包みだけが、膝の上に残った。


 そっと包みを開くと、ふわりと香辛料と肉の匂いが立ちのぼった。

 焼きたてのパンの皮がほのかに割れ、湯気が薄く立ちのぼる。手のひらに伝わるその温度が、妙にやさしく感じられた。


 パンを口に含む。歯が柔らかい皮を割り、肉汁が舌の上でじゅっと広がる。

 胡椒と塩、それに何か甘い香草の香りが混じり合い、冷え切っていた腹の奥までじんわりと染みていく。

 噛むたびに熱が喉の奥へ流れ込み、空腹だけでなく、剣を握る感覚が指先に戻ってきた。


 口に残った脂を、エールで流し込む。

 泡立つ苦みが喉をすべり、腹の底に届いた瞬間、こわばっていた身体の芯がほどけていく。

 指先の震えが、いつの間にか止まっていた。


 ――ありがたい。


 ほんの少しの気遣いが、これほど心に響くものだったか。

 ふと、レオナのことを思った。彼女にも、こうして支えてくれる家族がいたのだろうか。

 儚げな笑顔が胸をよぎる。


 いや、今は余計なことは考えるな。


 コンラッドは立ち上がり、木の板に打ちつけられた対戦表を見に行った。

 次の相手は――「アスガー殿下ご推薦」とだけ書かれていた。


 あの、控え室で見かけた仮面の男。

 同じ時間帯の試合だったため、戦いぶりはわずかしか見られなかった。だが、妙な既視感が残っている。


(あの剣筋……どこかで見た……誰だった?)


 悪意は感じなかった。むしろ、懐かしさにも似た感覚があった。


 もしかして――。


 頭にある名前が浮かびかけたが、今は追いかけるべきではない。

 あの人もまた、何かの“望み”を懸けて、この場に立っているはずだ。


 対戦表をさらに確認する。

 もし次の試合に勝てたとしたら、あのトラシュマコス王太子に勝った相手と当たることになるかもしれない。できれば試合を見ておきたかった。


「驚いたねぇ」


 突然、背後から声がして、コンラッドは身をすくませる。振り返ると、背の高い若者が立っていた。


「ラド先生……」


「まさかね。昨日、青芥子を盛られた人間が、ここまで動けるとは」


 ラドはあきれたように笑いながら、脈を取り、顔色と目の動きを確認した。


「うん、大丈夫そうだ。回復が早いのは良いことですね」


「昨日は……ありがとうございました」


 緩やかに首を振りながら、ラドは腕を組んだ。


「礼なら妹さんに言ってください。僕は手を貸しただけです。でも……一体誰がこんなことをしたのやら。最近、青芥子が闇で流通していてね。陛下に取り締まりを提言しようかと思っていたところなんですよ」


「そうでしたか……」


「便利ではあるんですけどね、使い方を誤れば命取りにもなる。呼吸が止まることもあるんです。だから本来は、医者がごく慎重に使うべきものなんです」


「……呼吸が、止まる……」


 コンラッドは思わず喉を押さえた。


「あっ、しまった。怪我人を診に来たんだった!」


 ラドは自分の額をぴしゃりと叩き、あわただしく控え室を出ていった。


 扉が閉まる。

 残された静寂の中で、外の歓声が遠くにかすんで聞こえた。

 その音さえ、どこか水の底から響いてくるように感じられる。


 コンラッドはぼんやりと立ち上がり、視線を落とした。

 床の上に射す光が淡く揺れ、砂の粒が細かく光る。

 昼の熱が残るはずの空気は、いつの間にか冷えていた。


 震えの止まった両手を見つめ、ゆっくりと握りしめる。

 指の関節が、乾いた音を立てた。

 その音が、奇妙に大きく響いた。


 ――まだ終わってはいない。

次回、第185話 「仮面の下」 1月22日(木)19:15更新予定

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